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DATE/ 2024.11.05

『学力喪失』が示す、こども本来の「学ぶ力」回復への道

 子どもたちの学力についての最近の調査によって、算数や読解力の課題が顕著になっています。たとえば、小学6年生を対象にした令和3年度(2021年度)の文部科学省「全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)」では、「8人に4リットルのジュースを等しく分ける」という問題で、正解である「4÷8=0.5(答え:0.5L)」ではなく、「8÷4=2(答え:2L)」と答える生徒が約4割もいたそうです。

 なぜ子どもたちの学力は低迷しているのでしょうか。そして、どうすれば回復できるのでしょうか。この問題に対し、真摯にこたえくれる本が、今回ご紹介する『学力喪失 認知科学による回復への道筋』(今井むつみ著、岩波新書)です。著者の今井氏は、こうした学力低下の原因を単なる「読解力不足」にとどめず、より根本的な要因が複合的に影響していると指摘しています。

「学力喪失」というタイトルは、単に子どもたちの成績が下がっていることを示しているわけではありません。むしろ、本書が目指しているのは、子どもたちが本来持っている「学ぶ力」をどうすれば十分に引き出せるのか、そのためにどのような環境や教育が必要かを認知科学の視点から解き明かすことにあります。

認知科学・学習科学に基づく学力回復へのアプローチ

 著者の今井むつみ氏は、慶應義塾大学環境情報学部の教授を務める認知科学者です。言語獲得や学習を主な研究テーマとしており、日本の教育における「学力」や「学び」に関する多くの著作を発表しています。代表的なものに、『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』(共著、中公新書)、『学びとは何か――〈探究人〉になるために』(岩波新書)、『ことばの発達の謎を解く』(ちくまプリマー新書)、『ことばと思考』(岩波新書)などがあります。

 今井氏の専門分野は、子どもの母語習得です。複雑な記号体系である言語を、何の知識も持たない子どもがどのように習得できるのか、その仕組みを研究してきました。そのような“偉業”を成しとげた乳幼児が、小学校に入学してからは学習内容についていけず、「学力が足りない」とみなされてしまうのはなぜなのか。この疑問から本書は生まれました。

「学力喪失」の原因は大人の側にあった!?

 子どもたちは母語を習得する過程で本来持っている学ぶ力を発揮しており、この力を十分に引き出せれば学力不足には陥らないはずです。ということは、問題は子どもたち自身ではなく、大人の側にあるのではないか。そのように考えた今井氏は、学力低下が30年以上にわたって問題視され続けているのは、大人の側が「子どもが理解できない原因の本質を捉えず、対症療法的な対策ばかりを繰り返してきたこと」にあると指摘しています。

 大人の側にある問題を列挙してみましょう。

1.文部科学省が実施してきた全国学力テストをはじめとした標準学力テストの得点を「学力」と捉え、そのようなテストで「高得点を取る」ことが「学力をつける」ことだと捉えてきたこと。しかし、そのようなテストでは、子どものつまずきの根本を見定めることができなかったこと。
2.「知識」について誤解していること。
3.人間の記憶と思考のしかたの仕組みについて誤解していること。
4.子どものつまずきの本質を理解しないまま、わかりやすく教え、その問題を何度も繰り返して解く練習をさせれば子どもは理解し、知識が定着するはず、という信念をもって大人(行政、教師、保護者など)が教育を続けてきたこと。その結果、局所的な対症療法だけが考案され、試みられてきたこと。

 このような問題点が残されたままでは、いくら対策を講じても根本的な解決には至りません。本書では「知識」「記憶」「思考」といった学びの根幹にかかわる認知の仕組みについての誤解が指摘され、これを正すことで建設的な議論ができるようになることが示されています。

教育者が知るべき「スキーマ」の概念

 先に挙げた問題点4.のように、大人の「知識観」や「教育観」が原因で、子どもたちの学びの現状は変わらずにいたということ。つまり、「わかりやすく繰り返し教えれば、学び手は理解する」はずという考え方自体が、根本的な誤解なのです。

 これを理解するうえで重要な概念が「スキーマ」です。スキーマとは、学習者が経験から無意識に作り上げた「暗黙の知識」のことです。たとえば、乳幼児が母語を習得する過程では、誰かに「丁寧でわかりやすい」教え方を受けているわけではありません。彼らは、自分で試行錯誤を繰り返しながら言葉の仕組みや単語の意味などを理解し、母語を習得していきます。このようにして形成されたスキーマは、無意識のうちに情報を選択するフィルターのような役割を果たします。そのため、スキーマに合わない情報は無意識にスルーされ、いくら丁寧に説明しても頭に入ってこないのです。

 教え手は、学び手が誤ったスキーマを持っていないかを見極め、必要に応じて修正することが求められます。これができなければ、冒頭で取り上げたような「算数の文章題が解けない」子どもたちの問題は解消されないでしょう。

 こうしたスキーマや、汎用的な思考力、認知能力を測るために開発されたのが「たつじんテスト」です。本書の著者である今井氏が広島県教育委員会と共同で開発したこのテストは、従来のテストのように学習内容の習熟度を測るものではありません。むしろ、子どもが抱える誤ったスキーマや思考の課題を発見し、理解できるように設計されています。本書の第2部では、この「たつじんテスト」の問題と子どもたちの解答がダイジェスト的に紹介されているますので、詳しくはそちらをお読みいただければと思いますが、そこでは子どもたちがつまずく原因について考察されています。

思考スタイルのコントロール――「システム1」と「システム2」の思考

「たつじんテスト」の調査から多くの知見が得られました。その一つは、「子どもがつまずく原因として、『思考力そのもの』よりも『思考の制御』に問題がある」というものです。

 学力が低位にある子どもでも、基本的な演繹や類推の推論は可能ですが、つまずきが起こるのは、日常のデフォルトの推論とは異なるスタイルを求められたときです。学校の学習では、まさにそのような異なる推論スタイルが必要とされる場面がしばしばあります。

 ノーベル経済学賞を受賞した心理学者ダニエル・カーネマンは、人間の思考には二つのタイプがあると述べています。日常的な判断は「システム1」によるもので、これはスキーマや直感に基づく自動的で速い思考です。一方、「システム2」は、理詰めで批判的に考える思考であり、複雑な推論や異なる視点からの検討が求められる場面で働きます。子どもたちが学校で必要とされるのは、システム2の思考を使い、普段とは異なるスタイルで論理的に考える力です。

 しかし、システム1の思考がデフォルトである人間にとって、急に「システム2で考えよう」と言われても、そう簡単に切り替えられるものではありません。これは教育現場ではあまり意識されていないように思われるという今井氏。子どもたちの思考のつまずきは、こうした思考を制御する力が弱いことに起因すると指摘します。

 教育の役割は単に知識を詰め込むことではなく、「子どもが自分で認知能力という制限の中でうまく思考ができるよう工夫すること、そして誰もが持つ思考バイアスや思考スタイルを自らコントロールできる力を育むこと」。本書では、そのような力を育むための実践例として、遊びを通じて学ぶ「プレイフル・ラーニング」などが紹介されています。こちらも非常に大事なところですので、ぜひ本書をお読みください。

 本書は、子どもたちの「学ぶ力」を回復させるためのヒントに満ちた貴重な一冊です。教育関係者はもちろん、子どもの成長に関わるすべての人にとって必読の書といえるでしょう。

<参考文献>
『学力喪失 認知科学による回復への道筋』(今井むつみ著、岩波新書)
https://www.iwanami.co.jp/book/b650415.html

<参考サイト>
・今井むつみ氏の研究室(應義塾大学環境情報学部)
https://cogpsy.sfc.keio.ac.jp/imailab/

・今井むつみ氏のTwitter(現X)
https://x.com/keiosfcimailab

・小6の43%が誤答「8人に4Lのジュースを等しく分けると1人何リットル?」迷いなく8÷4と立式する子への教え方(プレジデントオンライン)
https://president.jp/articles/-/74868

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