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DATE/ 2025.01.31

モンゴメリ生誕150年、大人の文学としての『赤毛のアン論』

『赤毛のアン』といえば、多くの人がまず思い浮かぶのは、1979年に放送された高畑勲監督のアニメ版ではないでしょうか。「世界名作劇場」の一作として制作されたこのアニメは名作として名高く、今もなお多くのファンを魅了し続けています。あるいは、劇団四季のミュージカルでご覧になった方もいるかもしれません。

 日本でもよく知られているこの物語の原作は、カナダの作家ルーシー・モード・モンゴメリによって1908年に書かれた小説です。プリンス・エドワード島の小さな村アヴォンリーを舞台に、夢見がちでおしゃべり好きな少女アン・シャーリーが、マシューとマリラ・カスバート兄妹のもとで成長していく姿が描かれています。

これまでの『赤毛のアン』翻訳は省略や翻案が多かった

 2024年はモンゴメリ生誕150周年でしたが、いま『赤毛のアン』シリーズは単なる児童文学ではなく、「大人の文学」としても再評価されています。今回ご紹介する『赤毛のアン論 八つの扉』(松本侑子著、文春新書)は、「エピグラフと献辞」「英文学」「スコットランド民族」「ケルトと『アーサー王伝説』」「キリスト教」「プリンス・エドワード島の歴史」「カナダの政治」「翻訳とモンゴメリ学会」という八つの視点から本作を読み解く、最良の『赤毛のアン』入門書です。

 日本における『赤毛のアン』の翻訳といえば、長らく村岡花子氏の訳が親しまれてきました。戦後まもない1952年に出版されたこの訳は、古風で品のある言葉遣いと朗らかな文体が特徴です。しかし、この「村岡訳」は実は省略版であり、原作に含まれる一部の表現やエピソードが割愛されていることはあまり知られていません。日本の読者にはなじみの薄い聖書由来の言葉や文学的な引用が分かりにくいとして翻訳では省かれてきたのです。そのため、これまでモンゴメリが描いた本来の『赤毛のアン』を味わうには、基本的には原書で読むしかなかったのです。

日本初の全文訳者が解説する『赤毛のアン』の世界

 そうした状況の中で、原作に忠実な全文訳として登場したのが、松本侑子氏の訳です。『赤毛のアン論 八つの扉』の著者でもある松本氏は、原文のニュアンスを損なわず、従来の翻訳で省略されていた場面や表現を忠実に再現しました。さらに、物語の背景をより深く理解できるよう、詳細な注釈が加えられています。たとえば、作中で引用される英文学や詩の出典を明記することで、モンゴメリ文学が持つ奥行きをよりリアルに体感できるようになっています。

 松本侑子氏は小説家であり、翻訳家としても活躍されている方です。特に、日本初の全文訳・訳注付き『赤毛のアン』シリーズを手がけたことで高く評価されています。松本氏が『赤毛のアン』と出会ったのは中学生のときだったそうです。その後、小説家としてデビューし、20代で新訳の依頼を受けましたが、「すでに村岡花子訳がある」との理由で一度は断っているとのこと。しかし、後に村岡訳が省略版であることを知り、原作の魅力を忠実に伝える全文訳の必要性を感じたため、20代の頃から新訳の作成に取り組むとともに、モンゴメリ研究を本格的に始められました。

 本書は、そうした長年の研究成果に加え、2020年から朝日カルチャーセンターや中日文化センターで行った『赤毛のアン』に関する講座をもとに執筆されたものです。

「エピグラフ」に込められたモンゴメリの意図

 アン・シリーズは、第1巻『赤毛のアン』から始まる全8巻の作品です。各巻の冒頭には、エピグラフ(題辞、モットー)として詩の一節が掲げられており、主題や登場人物の運命を象徴的に暗示しています。村岡訳では省略されていたこのエピグラフについて、本書では解説されています。

 たとえば、第1巻『赤毛のアン』のエピグラフには、19世紀イギリスの詩人ロバート・ブラウニングの詩が引用されています。

「あなたは良き星のもとに生まれ
精と火と露より創られた」

 松本氏は、この詩の意味について「主人公のアン・シャーリーが幸せを約束された良き星のもとに生まれ、豊かな精神、炎の情熱、朝露のごとき純真さから創られた」と解説しています。

 また、小説の最後(第38章)でアンが語る「神は天に在り、この世はすべてよし」という言葉も、ブラウニングの劇詩『ピッパが通る』からの引用です。つまり、『赤毛のアン』はブラウニングの詩に始まり、ブラウニングの詩に終わるという構造になっているのです。

 さらに、第2巻『アンの青春』の冒頭に掲げられたエピグラフも、第1巻の最後の段落とつながりを持つと指摘されています。第2巻では、アメリカの農民詩人ジョン・グリーンリーフ・ホィティアーの詩の一節が引用されています。その一行目は「彼女のゆくところ次々と花が咲きいずる」というものです。

 一方、第1巻の最後の段落には次のような記述があります。

「これからたどる道が、たとえ狭くなろうとも、その道に沿って、穏やかな幸福という花々が咲き開いていくことを、アンは知っていた」

 この表現とエピグラフを対応させることで、「幸福という花々」が続編で「次々と咲きいずる」となり、アンの成長や未来への希望が示唆されているのです。

 このように、本書では、これまでの翻訳で省略されてきた要素についても丁寧に解説されています。松本氏は、次のように述べています。

「モンゴメリは日本では児童小説の書き手として理解されています。しかし世界では20世紀カナダ英語文学の作家として高く評価され、さらなる研究が進んでいます」

『赤毛のアン』は、単なる児童文学にとどまらず、知的で芸術的な奥深い魅力を持つ作品です。本書を読んで、最良の導き手が示す「八つの扉」を開き、大人の視点で改めてアン・シリーズの世界に触れてみてはいかがでしょうか。

<参考文献>
『赤毛のアン論 八つの扉』(松本侑子著、文春新書)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166614752

<参考サイト>
松本侑子氏のホームページ
http://office-matsumoto.world.coocan.jp/index.htm

松本侑子氏のX(旧Twitter)
https://x.com/officeyuko

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