●ガダルカナルは日米双方にどんな意味があったのか
ガダルカナル島の攻防を話します。このあたりから日本の状況は、悲しくなる一方です。1942年初頭以来、日本軍は、南西太平洋のニューブリテン島、ニューギニア島東部、ソロモン諸島の占領を企図して、ニューブリテン島の中心ラバウルを攻略します。
『さらばラバウル』という曲がありますよね。年輩の人しか知らない歌かと思いますが、「また来るまでは~」という感じです。
日本軍はオーストラリア軍基地ポートモレスビーを手中にして、日米開戦以来、海上輸送によりアメリカの対日反攻基地化しつつあるオーストラリアとアメリカのつながりを断ち切ろうと努めていました。ガダルカナル戦争のもとは、ここにあったわけです。
日本軍はツラギ島というガダルカナル島の対岸に飛行場適地を発見し、8月上旬までに滑走路1200メートル×50メートルの良質舗装を行います。そのような基地が造られるのは、アメリカから見るととんでもないことで、オーストラリアの危機を招き、企図していた作戦遂行にも支障をきたします。その作戦とは、南西太平洋の島々を制圧し、北上してフィリピンを経由、やがて日本本土を目指す「ウォッチタワー作戦」のことです。そのため、米軍は全力を挙げてガダルカナル基地の奪還を目指しました。
●アメリカの迅速な攻撃、一木支隊の参入
1942年8月7日夜明け、アメリカ側の第1海兵師団など1万8000人が、戦艦1隻、空母3隻、巡洋艦13隻、駆逐艦多数の艦隊に守られて、ガダルカナル、ツラギ両島に上陸作戦を開始します。日本のガダルカナル守備隊は240人、ツラギ島航空兵400人、飛行場設営隊が2400人ほどです。戦った日本兵士は玉砕し、あとはジャングルに逃走しました。
この頃、陸軍首脳部はなんと海軍のガダルカナル飛行場建設を知らされていませんでした。ミッドウェー海戦の惨敗も秘密にされて、知らされていなかったのです。そのため、彼らはアメリカ軍の本格的対日反攻を1943年中期以降と予測していたのです。
こうなってしまったら仕方がありません。ミッドウェーに注ぎ込もうと考えていた一木支隊(第7師団の歩兵第28連隊。東北出身者が多く、精鋭とされていた)がトラック島に送られ、第17師団の指揮下に入りました。アメリカ側から「タフガイ」と呼ばれる海兵第一師団です。8月20日から21日にかけて、北の精鋭対タフガイの熾烈な戦いがテナル川の河口付近に繰り広げられ、アメリカの決定的な火力で日本は甚大な被害を受けます。
●物量と機動力が攻防を分けたガダルカナル作戦
この間、ガダルカナルの北方にあたるソロモン諸島海域で、第一次、第二次のソロモン沖海戦が行われます。第一次海戦は夜戦だったため日本は優勢でしたが、すでに制空権はアメリカに握られていました。日本は夜になると米軍停泊地に艦艇を侵入させ、艦船や陸上施設を砲撃したため、アメリカ軍からは「Tokyo Express」と揶揄されたそうです。
日本軍は輸送船団を連ねて地上兵力増援に向かうものの、重火器輸送も困難となり、結局はこの物量不足がガダルカナル攻防の分かれ道となりました。アメリカ側は、機関銃保有は日本の6~7倍、105ミリメートル迫撃砲ですら、一門あたり2000発(日本の10倍)という物量です。アメリカの機動力の前に、補給も限られ、火力も乏しい日本は全く無力でした。
ガダルカナル作戦の結果は、投入された陸軍兵力3万2000人、うち戦死者1万500人、戦病死4300人、不明2300人、死亡率合計66パーセント。「ガダルカナル」は地名ではなく、帝国陸軍の「墓碑銘」になったと言われています。海軍の損害も、戦艦24隻(13.5万T)、航空機893機、乗員2360人と、惨敗です。
12月31日、大本営会議により、ガダルカナル奪回作戦は中止され、撤収作戦が決定しました。これにより、ガダルカナル島と東南ニューギニアのポートモレスビーを結ぶ第一線が放棄されます。そして、日本軍としては珍しいことに、1943年2月1日から8日にかけての1週間、救出作戦が行われています。20隻の駆逐艦が航空隊の援護の下に出動し、約2万人と見積もられたガ島地上兵力の撤収作戦を実施したわけです。当初5000人ぐらいと推計されていましたが、陸軍9800人、海軍830人で合計約1万1000人が救助され、ブーゲンビル島に撤退しました。残りは全員死亡ということです。
●計画段階で無謀といわれた「インパール作戦」
次にインドにおける有名な「インパール作戦」をお話ししましょう。
1943年12月22日~26日まで、中部ビルマの高原都市メイミョウで、第15軍司令部の「兵棋(机上)研究」が行われました。検討されたのは、ビルマ防衛のため、国境を越えてインド・アッサム地方(現バングラデシュ)を侵攻し、マニプール藩王国の首都で盆地の中央にあるインパールを占領...