●「本質主義」を避け、対話の形式に賭けてみる
では、日本の語り方から始めたいと思います。資料には「『本質主義』に陥らないように注意しながら、いかにして『日本』を語るのか?」と書きました。多くの場合、「日本とはこうだ」という本質を語る言説が多く、バリエーションが多様にあります。相いれるものもあれば、まったく相いれないものもあります。
「本質主義」は、この50年ぐらいの間、繰り返し問い直されてきました。そんなに簡単に本質を立てるのはやめておいた方がいいのではないか。それはわれわれの思考の自由を奪ってしまうのではないか。それよりも、もっと思考を自由に解き放つために、本質を立てずにその事柄を考え、問うやり方がいいのではないかと論じられてきたわけです。
われわれもそのラインに乗っているわけで、『日本を解き放つ』の本を作ったときに、何か決まった「日本」が前提されていたわけではありません。そうではなく、日本に対する私たちのイメージがいろいろとある。そういったものを取り上げながら、いかにして日本を語れば、日本に対するチャンスを開くことができるのか。日本の未来をもっと豊かなものにできるのかといったことを考えてみたわけです。
この本は小林康夫氏との対話にしましたが、多くの本は一人の著者が語るmonologue形式です。著者の世界観が隅々まで表現されるのが、大体近代的な本の作り方です。それはそれで面白く、自分が隅々まで理解してその本を支配できているような感覚はあります。しかし、dialogue(対話)をしてみると、それはできないのです。
小林氏と私はいろいろな話をしましたけれども、「まさか自分がこんなことを考えるとは」「まさか自分がこんなことを口にするとは」という局面がたくさん出てきました。まったく想像していなかったのに、相手の言葉に触発されて、その場で思考が駆動し始める。こういう感覚がdialogueにはあるわけで、それ自体が実は日本の語り方において極めて重要なのではないかと思いました。
●ことばとからだとこころは別ものではない
目次はこのようになっているので、ざっとご覧いただければと思います。
「世界の未来に向かって」というのが、小林氏の最初の「はじめに」です。私たちはある未来を開こう、考えようとしているわけなのですが、その後に3つの大きな固まりがあります。第1部「〈ことば〉を解き放つ」、第2部「〈からだ〉を解き放つ」、第3部「〈こころ〉を解き放つ」で、最後の第4部はそれを受けて、「日本から世界へ」によって「今から未来へ」を考えたものです。
ここでは、あえて全てひらがなで書きましたが、ことば・からだ・こころは、どうでしょうか。普通われわれは、ことばもからだもこころも別々のものだと考えています。特にからだとこころに関しては、西洋的ないわゆる「心身二元問題」があり、こころとからだの関係をどう理解すればいいのかについて議論が行われてきました。
ところが、本書では冒頭から空海を問題にしています。ことばとからだとこころの3つが決して別ものではないという、非常に不思議な了解から始めているわけです。それは一体どういうことなのか、少しだけ中を見ながらご説明していきましょう。
●「火と水」のエピソードに始まる日本の秘密
まず、最初に[巻頭対談]があり、火と水の婚姻(結婚)という不可能事から、この本は始まっています。火と水は、世界を構成する根源的なエレメントです。この二つの相反するエレメントが結び合ったときに何が起きるのか。
実際には、小林氏がインドに行ったときの話が語られます。学生たちにある踊りを踊らせると、天が感じてしまって雨が降り、大洪水が起きた。踊った場所が洪水で流されてしまい、現地の人は困ってしまう。外国からやってきた異邦人が勝手に踊って、天が感じて洪水になるなんて、どうしてくれるのだ。
こういったエピソードから始まるのですが、実はこういうものは日本にも当然存在しています。「水」は日本の思想にとって、極めて根源的なメタファーだと思いますが、水だけではなくてもう一つ、火のエレメントが日本には当然ある。この二つが、どういう緊張をはらみながら日本を構成しているのか。そういったところから、解きほぐしていこう、としました。
例えば、伊勢神宮はその典型で、内宮と外宮がそれぞれ火と水を表します。その二つが一つとして機能するとはどういうことか。それが、日本のある種の秘密になってきたわけです。そこから考えて、日本をつかんでいこうとしているのですが、どのようにつかんでいけばいいのか。私たちは、こんなことを考えました。
「ある種の変容が自分の中に生じない限り、絶...
(小林康夫著、 中島隆博著、東京大学出版会)