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戦後の財閥解体の中、松下幸之助はいかに苦難を克服したか

戦後復興~“奇跡”の真実(11)松下の戦後の苦悩と再生

島田晴雄
慶應義塾大学名誉教授/テンミニッツTV副座長
情報・テキスト
松下政経塾
戦前には数々の革新的発明によって発展した松下電器産業であったが、戦時中に武器納入に加担した責任を問われ、戦後の財閥解体の中で経営に大きなダメージを与えた。自身の財産の多くを失った松下幸之助であったが、不屈の精神によって松下電器産業をグローバル企業へと育て上げた。今回は、産業だけではなく、松下政経塾やPHP研究所の創設を通じて社会にも影響を与えようとした松下幸之助の後半生を解説する。(全16話中第11話)
時間:11:23
収録日:2019/07/23
追加日:2019/09/10
≪全文≫
※以下、本文は講演資料に基づいた形になっております。動画と合わせてご利用ください。

● 産業界の経験から学ぶこと


 1. 松下幸之助と 松下電器産業(前話からの続き)
(4)太平洋戦争時の軍需企業化
ー戦争勃発と軍需企業へ。
太平洋戦争勃発。1938国家総動員法
1938初め、M製造の軍事物資はわずか。戦争の進展とともにM含め多くの企業が動員。Mは電気製品のほか、銃剣、木製プロペラ、木製の船と飛行機を軍に納入
・軍需で事業は拡大。終戦時、Mは従業員20000万人以上の大企業。
独創的家電製品メーカーとは異なる事業内容。大部分は軍需工場。M全体中央集権化。

(5)占領下の苦難
ー玉音放送と決意
・1945.8.15.天皇玉音戦争終結放送。
8.16.重役を集めて、これからを話し合った。Kは将来について断固たる決意を語った。
「我々は国家再建の任務を引き受けるべし。それは全国民にとって至高の義務」
ー生産停止命令
・1945.9.2. MはGHQから一般命令第一号」(全生産停止令)。同時に資産を確認してGHQに提出命令。Mはこのため壊滅状態に。
1945.11. 三井、三菱、住友、安田の持株会社は、巨大独占トラスト「財閥」指定、解散命令。
○労組を説得
・1945.12. 労働組合法公布。
・松下電器産業労働組合、結成大会は1946.1末。大阪中之島の中央公会堂。参加4000人従業員の中にKは挨拶を申し出た。労組は最初断ったが受け入れ。Kの行動は過激な反資本主義分子を勢いづかせかねない危険。その日は、運、同情、ビジョン合間って奏功した。記録ではたった3分。Kは諸君の意向を信じている。経営と労組は調和して生きられると信ずる。過激な 組合員はその祝辞を嫌ったが、参加者の一人は、聴衆は歓呼で応じたと語っている。小さいが重要な勝利。
ー財閥家族指定
・M労組は、多くの要求。しかし、M労使の闘争は他企業に比べ穏やか。
大半の従業員は、反会社を標榜する主張を無視。
・1946.3. 10社財閥が資産凍結令を追加適用。
1946.6. 松下家は財閥家族の指定。
1946.11. GHQは財閥企業の重役以上全員を会社組織から排除する命令。
・財閥リストに入れられたのでMの戦時中からの莫大な負債から救われる道は閉ざされた。Kは自分の会社が財閥リストに入れられたことに唖然。巨大財閥とは違うはず。
・1946.3.の財閥指定に加えてさらなる規制。松下家、財閥家族指定。その結果個人財産の全てが凍結。生活費は平均的な公務員の給与なみ。どんな少額の小切手を切るにもGHQの許可必要。
ー資産は消滅、負債は残存
・1946.7.災難は続く。Mの8工場が賠償工場として差し押さえ。資産は一夜で消えたが、負債は会社の帳簿に残った。
8月、会社は特別経理会社に指定され、財務上の様々な規制を受けることになったため、再建は困難を極めた。
・1946.11月、戦犯を公職からの追放措置適用。K含む常務以上の重役全員が会社追放。
・Kはこの一連の決定は異様に不公平であまりにも理不尽と語ったが覆す力はなかった。
・終戦時Mは創業28年。Kは家族の悲劇による打撃から40年かけて這い上がってきたところ50歳。敗戦ー占領。なぜこれまでの処罰を受けねばならないのか。
○PHP研究所と松下政経塾の理念
・この頃、Kは自殺も考えたという。その苦悶の中で超越的思考。
・1946. 11 PHP研究所創設。
この理不尽な苦境への憤り。それを克服する理念? PHP(Peace and Happiness through Prosperity) 物心両面の繁栄により、平和と幸福を実現する。
・1979年、PHPから30余年後、「松下政経塾」設立。K84歳。企業がどれだけ努力しても国家が道を誤れば、人々は不幸になる。国家が道を謝らないよう正しい政治を実現する人材を養成する。
○神藏孝之氏は、松下政経塾第二期生として、松下幸之助翁から直接教えを受けた。
・「笑顔の中でも目が笑っていない。なんという怖さと迫力を持った人だろう。
たとえば、1年間の研修を終えた塾生に対し、全力で叱責。「君らは辛酸をなめていない。君らは心眼が開けていない。だからわからないのだ。君らは猫に小判のほうだ」
・神藏氏は、翁が日本経済が絶頂期の1980年代末の文章に日本の病巣と将来への危機感を説かれたことを重視。経済マインドとパブリックマインドを併せ持つリーダーを望む。
GHQに必死の請願
GHQに抗議のため、Kは大阪ー東京を50回以上往復。直属の役員は100回以上。
・1946~47の冬。Mの労組は組合員と家族15000名の署名集め、GHQに、Kを社長に
とどめて欲しいと誓願書。組合員の署名は93%。星島二郎通産大臣は、労組から嘆願書に驚く。マッカーサー本人への連絡も試みた。
ー過度経済集中排除法適用!
・1948.2. Mは過度経済集中排除法が適用。12ヶ月後に解除されるまで、Mは破綻の瀬戸際。経営権奪還への戦いは4年。
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