※以下、本文は講演資料に基づいた形になっております。動画と合わせてご利用ください。
●産業界の経験から学ぶこと4. 本田宗一郎、藤沢と本田技研
(1)生い立ち:根っからの自動車好き・小二、20km離れた浜松の歩兵連隊に飛行機が来て飛んで見せる。自転車で必死に。遠目に初めて飛行機を見た。
ー人を差別しない原点。
・貧乏で衣服買ってもらえず。汚い子は来るなと差別。悔しさ。金のあるなしで差別は絶対排撃。経営でも皆平等。原点。
・東京・湯島の自動車修理工場「アート商会」で6年修行。
・アート商会の主人は優れたエンジニアで経営者。多種多様な車が持ち込まれた。本田には絶好の実地勉強。
(2)創業「アート商会浜松支店」
・のれん分け。郷里に近い浜松に「アート商会浜松支店」看板↑。22歳父は家屋敷と米一俵。
「なんでも直る」と評判。年末31日。80円の儲け。
・遊び激しく。自分の遊びは自分の金で。芸者遊び。自家用車(外国製)2台。
芸者を放り出して電線で命拾い。
(3)東海精機でピストンリングつくり
・修理工場閉鎖。東海精機株式会社つくり、ピストンリング製造。
精魂つくし、苦吟。金なく、妻のものまで質屋に。挫折したら飢え死に。絶体絶命。
鋳物の基礎知識。浜松工業高校(現静岡大)の藤井教授。知識欠如。基礎から勉強を聴講生に。遊びはなく苦しさと戦う。勉強は役立った。なんとかPRできたのは1937.11.20. 辛苦の 9ヶ月。
ートヨタに納品。
・PRつくれたが、量産、商品化までは血みどろの苦闘。トヨタに納め用と3万本。50本ほど納品検査。3本しか合格せず。
・そのうち研究成果。2年かかってようやくトヨタの納品として合格。それが元で戦時中、トヨタの資本が40%、資本金120万の会社に。PR生産は本格化。そのとき、トヨタから取り締まり役、石田退三氏。
・終戦。PR製造お手上げ。トヨタの部品作ったらの話あったが、断然断り。戦時中だからトヨタの言うことを聞いていた。戦争終わった。
(4)敗戦:モーターバイクからオートバイに。
・自由にやりたい。トヨタに東海精機売った金45万円。次の仕事もなかなか思いつかぬ。
・しかし、次に何をやろうか常に考え。まず、織物機械。ロータリー式織機開発。浜松の600坪の土地に50坪の疎開バラック工場買ってきて本田技術研究所。
・織機ではそれほど儲からないので、モーターバイク。戦争中、軍使用の通信機の...