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そもそも朝鮮戦争とはどのような戦争だったのか

戦後復興~“奇跡”の真実(9)朝鮮戦争と講和後の日本政治

島田晴雄
慶應義塾大学名誉教授
情報・テキスト
朝鮮戦争(仁川上陸作戦)
米ソ対立の代理戦争ともいえる朝鮮戦争は、多くの国を巻き込み冷戦構造を固定化した。その中でアメリカの国際政治認識における日本の立ち位置も変化し、サンフランシスコ講和条約によって、第二次大戦の交戦国との間に講和が結ばれた。その後、国内政治も徐々に安定化に向かい、自民党体制の安定化から池田勇人内閣による所得倍増計画へと向かう。(2019年7月23日開催島田塾会長講演「戦後復興:“奇跡”の真実」より、第9話)
時間:13:32
収録日:2019/07/23
追加日:2019/09/03
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≪全文≫
※以下、本文は講演資料に基づいた形になっております。動画と合わせてご利用ください。

●国際情勢の変化と対日占領政策の転換

5. 朝鮮戦争
(1)朝鮮半島の分断:朝鮮戦争の導火線?
・1945.8.ソ連の朝鮮半島への進出を受けて、アメリカ(陸軍Dean Rusk将軍)はソ連に38度線での分割占領案を提示。ソ連はそれを受けて半島北部を実効支配。
・1948.8.15.李承晩がソウルで「大韓民国」建国を宣言。李承晩は米国の対応に不満・怒り
・1948.9.9.金日成が「朝鮮民主主義人民共和国」成立宣言。
・アメリカは欧州を重視し、1940年代末には兵力を太平洋戦争時より大きく削減していた。

(2)朝鮮戦争勃発
・1950.6.25.北朝鮮軍が38度線を越えて韓国側に侵入。朝鮮戦争。
・同日、アメリカの要請で国連安保理緊急招集。ソ連が欠席する中、北の攻撃を侵略と認め、即時停戦と38度以北への撤退要求決議。6.27.加盟国に韓国への武力援助を勧告する決議。
・トルーマン大統領は、米海空軍に韓国への出動を命令。第7艦隊と中国の台湾への侵攻に備え、台湾海峡に派遣。7.7.安保理は国連軍の創設決定。
・7.8.トルーマンはMを国連軍最高司令官に任命。
・準備を整えていた(ソ連製+旧日本軍武器)北は半島を一気に南下。開戦から3日で、首都ソウル占領。9月には米韓両軍は朝鮮半島南端の釜山周辺まで追い詰められた。

(3)仁川上陸作戦
・1950.9.15. Mが釜山一帯に退いていた国連軍の反撃を期し、仁川上陸作戦敢行。この奇襲で、28日にはソウル奪回。背後から攻撃を受けた北軍は総崩れ→撤退。
・トルーマンは全軍に中ソとの国境を越えないことを条件に38度線以北への進撃を承認。1950.10.国連軍は38度線を突破。なお北進。平壌を占領。

(4)中国義勇軍の参加
・米軍が迫るのを見た中国義勇軍が参戦。戦闘は米韓対中朝に拡大。中国義勇軍が鴨緑江を越えて北朝鮮への進撃を開始したが、Mの情勢認識が甘く作戦ミスがつづき、国連軍は一気に38度線付近まで押し返され、1951.1.4ソウルが再び北朝鮮軍の手に落ちた。その後、国連軍が巻き返し、3月には戦争は膠着状態に。

(5)休戦協定
・1953.7.27国連軍と中朝連合軍の間で38度線近辺の板門店で休戦協定。

6. 講和条約と日米安保
(1)ダレスの講和構想
ーダレス再来日
・1951.1.25.ダレス再来日、1.26. アメリカ側から対日講和7原則に関する覚書と領土、安全保障、再軍備など協議リスト。
・2.5.ダレスは講和七原則を基礎としたアメリカ側暫定案手渡す。
・社会党は朝鮮戦争下の講和条約をめぐって左右対立で揺れる中、総評も揺れた。1951.3. 総評第二大会。全面講和、中立堅持、軍事基地反対、再軍備反対=社会党の4原則を採択。反共から始まった総評は、中立を軸に反米へと変身(ニワトリからアヒル)。GHQ落胆ー問題視

(2)マッカーサー罷免
・1951.3.24. 朝鮮戦争が膠着状態。
・1951.3.24. Mが「中国本土攻撃も辞さず」と発言。Mは中国東北部の空軍基地と工業地帯ならびに全土の工業地帯を原爆と空爆で破壊し、共産主義支配の打破めざした。この考えに基づき、原爆の前線への移送と使用許可をトルーマンに求めた。トルーマンは返事を保留し、停戦の呼びかけを準備。Mは停戦工作を妨害するためWHの許可なく中国当局に事実上の最後通牒を発した。これはcivilan controlを逸脱。
・トルーマンはMの扱いを側近と協議。Mに知らせずト氏は原爆9をグアムに移送。
・1951.4.11:Mが辞表を出す前に、トルーマンは彼の解任決定。Civilian Control 違反。
Mには茶封筒送りつけ。M「ジーニー、やっと帰れるね」
・1951.4.16.早朝、Mは帰国の途、Mは愛機バターン号で離日。49tに及ぶ膨大な荷物。Whitney民政局長も帰国。
・帰国後、NY5番街、数十万の群衆が歓呼の出迎え。
・上下両院会議 ”Old soldier never die, just fade away” West pointで兵士の流行歌の一句。

(3)サンフランシスコ講和会議
・7.20.米英両国は対日宣戦布告した49ヶ国に、9.4.から開催する講和会議への招請状。イギリスサンガー全権、我々は日本の占領の経験を忘れていないが、将来に目を。
・吉田は壇上、講和条約は公正にして寛大、復讐でなく、和解と信頼。欣然受諾。
・一方、日米安保条約は、9.8.夕方、SF郊外の第六兵団ブレシディオの兵舎で吉田茂のみ署名。その時間15分。

7. 講和後の日本の政治と経済発展
ー鳩山一郎政権
・吉田茂氏の第五次政権が不人気で総辞職した後を受けて、鳩山一郎氏が1954.12.10. 首相となった。
・1956年日ソ共同宣言批准、日ソ国交回復達成。帰国直後、総理引退表明。1956.12.23.
ー石橋湛山政権
・東洋経済新報社主幹。加工貿易立国で植民地不要の「小日本論」 提唱。
・1957.1.25帰宅して風呂場で倒れた。2ヶ月の絶対安静必要と医師(日野原重明)診断で「私の政治的良心に従う」と退...
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