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なぜ自動織機会社だったトヨタが自動車企業へ転身したのか

戦後復興~“奇跡”の真実(12)豊田喜一郎とトヨタ自動車1

島田晴雄
慶應義塾大学名誉教授/テンミニッツTV副座長
情報・テキスト
豊田喜一郎
世界的にも名高い日本の自動車産業のトップランナーは、言わずと知れたトヨタ自動車である。自動織機の会社として栄えながら、時流を敏感に読み取った豊田喜一郎の機転によって、1930年代から自動車製造企業へと舵を切った。さまざまな国際条件や国内条件を踏まえて、自動車が日本で必要とされるという判断をした、豊田喜一郎の慧眼であった。日本の戦後復興を支えた起業家の2つ目の事例として、豊田喜一郎とトヨタ自動車の戦前の発展を詳しく見ていこう。(2019年7月23日開催島田塾会長講演「戦後復興:“奇跡”の真実」より、第12話)
時間:09:33
収録日:2019/07/23
追加日:2019/09/17
≪全文≫
※以下、本文は講演資料に基づいた形になっております。動画と合わせてご利用ください。

●産業界の経験から学ぶこと


2. 豊田喜一郎とトヨタ自動車
(1)佐吉の偉業
ー発明家、佐吉の長男として生まれ
・Kは1984.6.11 豊田佐吉、たみの長男として生まれ。佐吉は自動織機の開発で後年、有名。

(2)喜一郎と利三郎
・Kは1914仙台二高(のちの東北大学)に入学。
ー児玉利三郎が妹と婚約(特別な意味)。
・Kが在学中、児玉利三郎が妹の愛子と婚約への知らせ。愛子は大変な美人。
・児玉家(彦根):児玉一造、利三郎、佳三(3人兄弟)。
・利三郎は東京高等商業学校(一橋大学)に学び、伊藤忠合名会社に就職。利三郎はロンドンやパリで活躍したいと思っていたが、愛子を見て一転。
ー佐吉は喜一郎より利三郎の経営能力に期待。
・佐吉は立派な息子がありながらなぜ利三郎を婿養子に?喜一郎の”経営能力”を問題視?
・ 1915.10. 利三郎婿入り。利三郎は社交的で経営能力抜群。佐吉と事業大発展。豊田自働紡績工場を株式会社に。
・1920.3.15. 戦後恐慌→繊維大暴落。利三郎は暴落直前に先物取引手仕舞い。
・1921.3. Kは名古屋に戻り、豊田紡織に入社。Kは1921.4.から出社。
・Kと利三郎夫妻は1921.7.29 東洋汽船の豪華客船、春洋丸でアメリカへ。視察よりも豊田を背負う2人の人間関係づくり?
・その後、欧州を半年。1922.11 訪英。プラット社視察。紡績機械製造徹底見学。1923.4. 箱根丸で帰国。

(3)環境激変と経営対応
○大震災から未来を読む
・大震災(1923.9.1)は日本の自動車産業発達史に重要な契機。東京都はT型フォードトラックシャシー800台緊急輸入→乗合バスに。
ー一方、完全自動化機「無停止K換式豊田自動織機」完成。
ー「株式会社豊田自動織機製作所」設立。今日のトヨタ自動車の母体に。
・1926.11. 生産・販売体制確立のため、「株式会社豊田自動織機製作所」設立。全くの独立資本。これが今日のトヨタ自動車の母体に。
ー完全自動化機で苦境を活用ー未来志向の経営戦略が的中。
・豊田自動織機製作所は1927.6.本格操業→フル稼働に。経済環境:1927.1.綿糸暴落、27.2織布工場休業全国に。27.3~4. 金融恐慌、株式暴落、鈴木商店破綻。
ー完全自動化織機の効用にプラット社が注目、製作・販売権譲渡。
・1929、工場法改正で、少年工、女工の深夜業禁止。
他社がコスト↑となる中で、いち早く自動織機に切り替えていた豊田系織布工場はむしろシェアを伸ばした。それにプラット社が注目。
・1929.豊田製自動織機の性能を確認したP社は豊田自動織機と特許譲渡契約。
・P社に対し「無停止K換式豊田自動織機」を独占的に制作・販売する権利を譲渡。対価は10万ポンド(当時で100万円)。大きな成果。
○「両利き」、「ハイブリッド」経営
・KはP社の売り出し状況と視察、さらに欧州2ヶ月、前年9月のアメリカとあわせ7ヶ月の大規模視察。KはP社の急速な没落を見て危機感↑。これがKに繊維機械メーカーの将来性への疑念↑、さらに自動車への進出を考えさせる契機に??
→「両利き」、「ハイブリッド」経営の先駆。
○自動車に興味(喜一郎)
ー喜一郎、自動車生産への執念
・ Kは1933.9、正式に豊田自動織機製作所に自動車部を設置。
・関東大震災を挟む二度の欧米視察旅行で、Kは自動車産業の将来性に歴史の必然を見た?
・1931.9に勃発した満州事変が拍車。政府は国産車育成のため、外国車の輸入規制。
○財閥も尻込みする自動車に挑戦
・Kが自動車進出を打ち明けたとき利三郎は大反対。愛子が珍しくKの思いを夫に懇請。利三郎は1933秋に自動車進出を認めたが、自動織機、紡績機の売り上げ絶好調だった。

(4)戦時体制と自動車参入
ー財閥も尻込みした自動車生産。
・1931満州事変以降、陸軍省、商工省、鉄道省は、自動車産業育成のため、関連産業の主要企業の合併を画策。当事者は乗らない。政府は三井、三菱、住友など大財閥に自動車への参入を要請。しかし彼らとしてもフォード、GMには追いつく見通しは立たない。利三郎が「大財閥でも手を出さなかったのに」という背景。
・この情勢をKは的確に把握。
○周囲の同意を確保して前進
・利三郎の同意を得ると、Kは早速、自動車部の人選。
関係各社、各方面から中核人材引き抜き。業界を驚愕させる。彼らはのちのトヨタGの中核幹部になる。
○大型乗用車の商機を狙う
・Kは日米関係がさらに悪化したらフォード、GMの部品輸入は困難、操業停止もある。Kは参入するなら大衆用大型乗用車しかないと認識。
ー最初の試作車、A1型乗用車が完成
・1935.5. ようやく最初の試作車、A1型乗用車が完成。
しかしKは3台でテスト打ち切り。量産への時間がなかった。
1935夏までに自動車工業法の大綱、閣議決定の見込み。A型エンジンの試作で四苦八苦している乗用車では間に合わない。ト...
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