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プラトンが『ポリティア』で書いた2段階の教育論とは

哲学から考える日本の課題~正しさとは何か(4)2段階の教育

情報・テキスト
古代哲学においては、いかにして「正しさ」に到達できると考えられてきたのか。重要なのは、言われたことを真似るだけでなく、その先に哲学的な対話を始めるということだ。そうした2段階のステップを踏んで、本当に「正しい」とは何かを自分のものにするのである。(2019年10月26日開催・テンミニッツTV講演会「西洋哲学と東洋哲学から考える日本の課題」より全11話中第4話)
※司会者:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:08:32
収録日:2019/10/26
追加日:2020/03/02
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≪全文≫

●個人主義と共同体主義の間で哲学は揺れ動いてきた


―― 「正しさ」とは何かについて、問題を整理するためにいくつかお聞きしたいと思います。先ほど西洋的な人格や規範の話がありました。その前には、人間関係の中でこそ「正しさ」が生まれているという意見がありました。非常に簡略化して考えると、昔の日本の村のように、何か周りのことを気にし合って、それが規範になるということがありました。「そんなことすると悪目立ちするからやめておこう」とか、「こういうことはやらないとダメだよね」というのは、なんとなく人間関係の中だけで推し量っていたかと思います。それが、日本でいう「正しい」というものでした。

 それに対して、近代の西洋を受容した明治以降の日本人は、いわゆる人格や規範がないのではないかという自己批判をしていったかと思います。

 これは非常に簡略化したモデルパターンですが、そう考えたとき、今おっしゃったギリシャ哲学や中国古代の哲学は、どう見るべきだと思いますか。

納富 先ほど、中島さんが少し強調されましたが、非常に貧弱な形での個人や個人主義、人格に閉じこもることの問題はあります。しかし逆に、「みんなが共同体の中で、個をなくしていけば良いんだ」という考え方にも問題があると思うんです。

 西洋の哲学は、基本的にこうした両極のどちらかに多少振れながら、非常にバランスを取って進んできました。そのなかでは、やはり近代における個の自立や「私」が成立してくるということが、現代の私たちにとっても、哲学的にも、当然必要なことだと思います。


●プラトンの2段階の教育論にみる哲学的な対話の必要性


納富 少し補っていくと、先ほど私は「正しさ」とは養っていくものであると言いました。「涵養」という、難しい漢字で書くような、培っていくものとしての「正しさ」の話をしたのですが、これには実は2段階あるんです。プラトンは『ポリテイア』という本で、2段階の教育論を書いています。そこで議論されている教育は、まず幼い時期は、言われたことを真似することで、自分がまさにそうできるような人間になるというものです。それがある段階に達したところからは、哲学的な対話を始めなくてはなりません。

 つまり、与えられたものを、そのまま「はい」と言って何かをするだけでは、実は「正しさ」には至りません。これは、訓練して身につけた段階にすぎないからです。ここからが面白いところなのですが、その後、「いったい正しさは何だったのか」ということをもう1回反省する段階が来るんです。場合によって、批判的に反省します。

 最初の段階の教育は、日本でいえば小学校ぐらいの教育です。これと、大学に入ったときの教育は、ある意味で矛盾するところがあります。今まで「これが正しいよ」といわれてきた社会規範を「いや、本当はどうなんだろう」と疑問に思い、場合によっては「不十分だった」「間違っていた」と思い至ることになります。ここに、2段階の教育段階があり、そこにおける2段階目の教育が先ほどの話に関係します。自分の理性で正しいかどうかということを、もう1回考える。それが本当に「正しい」とは何かを自分のものにするということなのです。

 この場合、1人で考えて自分が身につけたものを疑うことは、簡単ではありません。例えば哲学の議論のように、きちんとした手続きを通じて行わなくてはいけません。そのため、「今までの考え方は全部ダメだよね」といって、簡単に社会を引っくり返そうという話にしてはいけないのです。そういう意味でいうと、個がどこで成立するかというと、自分で考えた上で、自分がやってきたことを本当に自分のものにするということです。

 このことは、決して他の人と一緒にやっているということを排除しませんが、個による反省がなければ、「みんながやっているからやりましょう」とか、時代が変わって「最近はこっちが正しいと言われているから、こっちをやりましょう」となってしまいます。そこでは「正しさ」も何もなくなってしまいます。本当に「正しい」ことを実践する場合には、ソクラテスのように、1人だけでも「正しい」と思っていることを突き詰めるのだと言って死ぬこともあり得ます。これは、多数決で決めるような問題ではないと思うんです。

 そこは悪い形にならずに個や人格というものをどのように使っていくかということで、重要となってくるのはやはり議論なのではないかと思っています。


●人格という言葉の意味と意義


―― 中国の哲学に関してはいかがでしょうか?

中島 私は先ほどあえて「人格」という言葉を取り上げましたが、これは「personality(パーソナリティ)」の翻訳語です。私の記憶が間違ってなければ、この言葉は井上哲次郎という東京大学の初期の哲学の先生がつくった翻訳語で...
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