●織田信長の官職辞職は新たな国家構想の証か
今回は、このようなかたちで諸勢力と共存して国内を統合していく上で、また家臣たちとともに政権、織田権力を運営していく状況のなかで、織田信長自身はどうあろうとしたのか、ということについて見ていきたいと思います。
一般的には信長というと、いつまでも国内にとどまっているのではなく、国の枠を越えていく新たな国家構想を描いていたといわれているかと思います。
その証とされるのが、天正六(1578)年四月に起きた信長の官職辞職で、その時についていた右大臣と右近衛大将を辞めてしまったところにあったかと思います。それが、信長が新たな国家構想を描いた証だと言われるのですが、果たしてそうなのか。今回はそのことについてお話ししていきたいと思います。
そもそも信長にとって官位というものがどうあったのかというところからです。信長が「権大納言兼右近衛大将」になったのは、天正三(1575)年十一月でした。これによって信長がどういう立場になったかというと、まず「権大納言」の立場によって足利義昭個人と同等になりました。また、「右近衛大将」というのは源頼朝が就任しており、足利義昭の父である足利義晴も早くに将軍を辞めた後に任ぜられた立場ですから、「武家の棟梁」にふさわしい立場であり、ステータスでした。
その職に就いたことで、信長は自分が足利家に代わって天下を統治していく存在であることを世間に示したということになっていると思います。さらに信長は、その後、最終的に「正二位右大臣兼右近衛大将」という当時の武家における最高位、任官士(武家のなかでの任官者)のなかでの最高の立場に就くことになっていきます。
●織田信長は辞官しても朝廷との関係を絶つことはなかった
信長にとって、官位というのは、自身が足利家に代わって天下人にあることを世間に示すステータスであったわけです。そのステータスとしてあった官職を、天正六年(1578)四月に信長は辞めてしまうことになります。今までは、信長がここから国家構想を描き出したといわれてきましたが、果たしてそうなのかという問題があります。
なぜならば、その時に辞める理由を書いた信長の書簡を見ると、次のように言っているからです。信長自身が辞めるのは、まだ「天下一統」がなっていないからということなのですが、もう一つ同時に願い出ていることがあります。それに注目してみると、信長は、嫡男の信忠に高官──難しい言葉で「顕職」といいますが──を要求している。ここを見逃してはならないかと思います。要するに、「自分はもうこれで降りるけれど、息子に高い立場を譲ってくれ」ということを言っているわけです。これが何なのかということも、併せて考えなければなりません。
また、信長はこれによって朝廷との関係を断っていったのかということを見ていくと、彼は確かに右大臣兼右近衛大将という立場は辞めたものの、正二位という位階の方はその後も死ぬまで維持しています。また、注目していただきたいのは、先ほどもお話したように彼が大名たちに争いをやめ、織田政権の下でまとまって活動していくことを求めた際に、それを乱すような存在に対して「朝敵」という言葉を使っていることです。
もし朝廷と関係を断ったならば、「朝敵」という言葉を使うでしょうか、という問題がここで出てくるわけです。つまり、信長は依然として「朝廷を庇護する」天下人としてあったからこそ、「朝敵」という言葉を使い続けることができたのではないかと考えられるわけです。そうなってくると、信長と朝廷は離れる関係にあったわけではないということです。
では信長は、なぜ官職を受けなかったのか。確かにこの後、信長を左大臣にしようとか、将軍にしようとかという動きがあります。これに対して、信長はどのような対応を取っているかというと、求められるのならば、それにふさわしい機会が来たときに応じようという姿勢を示すことはあるのですが、自分から積極的になろうという気はなかったということです。そのことを押さえておいていただきたいと思います。つまり、朝廷から「なってくれ」と求められたら応じるけれど、自分からはそれを求める気はない。もう信長にとって官職というのは、自分から求めるものではないということです。
●後継者である嫡男・織田信忠の存在意義
そうしたことを踏まえた上で押さえていきたいのは、信長が官職を辞めるにあたって、「嫡男の信忠に、代わりに高官を与えてほしい」と言っていたことです。これは、信忠がどういう人物だったのかという問題にもなってくるでしょう。
信長に...