●世阿弥の夢幻能はよく知っておいたほうがいい
その人(世阿弥)が語るのに、これを語らなきゃダメだというものがあります。それが「夢幻能」というものです。これはよく知っておいたほうがいい。これについては『井筒』を例にお話しします。
夢幻能は、第一に「ワキ」という演者がずっと出てくるんですが、これは僧の形、坊さんの形をしています。その人がこう言うんですね。「これは諸国一見の僧にて候。我この程は南都七堂に参りて候。又これより初瀬に参らばやと存じ候」と。諸国一見の僧が出てくるというのが面白いですよね。いろんなところを見物しながら人生を送っている人がいたと。すごいものですよね。こういう一生があった。そういう人が現にちゃんといたということですね。
その諸国一見の僧がほとんどボロボロになっている廃寺へ行って、こう言うんですね。「これなる寺を人に尋ねて候へば。在原寺とかや申し候程に。立ち寄り一見せばやと思ひ候」と。つまり、人に聞いたらなんという寺か。「在原寺」と言う。へえ、そうですか。じゃあちょっと見ていこうかと。寺はすっかり荒れ果てて、秋も半ば、冬枯れの時で、さみしい風景。そういうところなんですね。
その時に、「前ジテ」というものが始まって、スッとそこにシテが出てくるんです。これが「いとなまめける女性」です。なまめかしいということです。美人とは言っていない。なまめかしいと言っているところがいいと思う。いとなまめかしい女性が花とお水を手向けにすっと登場するんです。
そこで、ワキの僧侶がまずその女性にこう言います。「如何なる人にてましますぞ」これはまだ通り相場の台詞です。続いてこう言います。「これはこの辺りに住む者なり」。私はこの辺りに住んでいる者なんですが、「この寺の本願在原の業平は。世に名を留めし人なり」と。ああ、だから在原寺なんだとなる。
大体この夢幻能というのは、一時代前の絶世の美男子、在原業平などが登場します。どういう人であったかというと、私を見てくれればいいですよ(笑)。在原寺はこの業平をお祀りする寺だというわけです。
●時空間を支配するアニマ
「いかさま故ある御身やらん」、あなたはどういう縁故でここに手向けに来られているんですかと尋ねる。「故も所縁もあるべからず」と言った瞬間に、バッとそこで変わって、ここから夢幻空間へサーッと入っていくわけです。
それで、要するに今のようなワキとシテの問答がずっと続くんですが、そこから後ジテということです。前は前ジテでしたが、ここから後ジテになる。そして、このなまめかしい女性が業平の形見の冠と、それから衣もまとって登場してきて荒れ狂う。一人で恋い焦がれている女性のエネルギーで舞い踊るわけです。
それは何なのかというと、あの世から来た幽霊なんです。「幽霊」というのは世阿弥の言葉で、要するに霊ですから、その霊の持ち主であるかつての美女が舞い踊るということは、何の力で舞い踊っているのか。霊力、アニマというものが、こういうところに出てくるんです。
アニマがそのとき、時空間を支配する。その一時は誰もが貴賤の別なく、位が上の人も貧しい人も皆、その霊力に支配され、それを見ている観客全体が巻き込まれてしまう。あの世とこの世の”囲い”がバッと断ち切られて、あの世からエネルギーが噴射する。そういうもの。結局、それで女の姿は、在原寺の鐘がゴーンと鳴ると同時に消えて、ワキの夢がパッとさめ、「やっぱりあれは夢だった。まだ侘びしい寺だ」となって、「そうか、そうかと、そういう所縁のある寺であったか」と言って、去っていく。
●霊力を振りまかないドラマなんて意味がない
これは何かとよく考えると、結局、この霊力を観客に徹底的に振りまいて終わるドラマなんです。つまり、霊力を振りまかないドラマなんて意味がないということをここでいっているわけです。
ですから、そういう意味では、このアニマはどこから来たかというと、縄文から来たということです。縄文から連綿と伝わってきているアニマが、こうやって毎日毎日舞台から客席へやってくる。お客のほうも、「ああ、面白かったねえ、なんか興奮しちゃって。しかし元気になったねえ」と言って帰る。
なぜライブは人間を元気にするかというと、ライブ感というものの根本的、そして伝統的な意義づけなんですが、そういうものを復活させた人が世阿弥であり、そういう意味で今回の一つのテーマとして、日本人には霊力というすさまじいものがあるということを忘れないでもらいたいということなんです。
(「能楽図絵二百五十番」月岡耕漁)