●緊急事態に独裁が有効な理由
―― 独裁、共和政、民主政の三つの違いについては、だいぶクリアになってきました。ここまでのお話にもあったように、今はちょうど新型コロナウイルスが世界中に蔓延している時代で、世界の国も体制によってずいぶん対応のしかたが違うところがあります。
例えば日本ではあまりにも政治がグダグタし過ぎではないか、必要なことを早急に進めていないのではないかという話があります。逆に中国のように、かなり強権的・権威主義的に封じ込めを行ったところもあり、やはりこういうときは独裁のほうがいいのかなどという声が出たりしています。
その反面、中国のようにAIを使った監視社会のようなことになると、さすがにあれはダメでしょうという意見があったりします。独裁的なものに対する見方が、この危機の時代において揺れているように思えます。このような危機の時代に独裁を求めるのは、人間の無意識の欲求であったり、必然であったりするようなところはあるのでしょうか。
本村 それはもう、非常事態や緊急事態のときに独裁政が有利なのは、ある意味では当たり前のことではないかと思います。事態を速く決定しなければいけないときには、できれば全能の人が一人いればいいし、有能な専門家集団がそれをサポートしてもいい。そのような形のほうが速くできるし、そのほうがいいに決まっています。技術的な手続きを踏まえて行うなどということは、もうあり得ないことです。
だから「誰かに取り仕切ってもらいたい」というような声も出てくるのですが、規模や人口の問題がそれをさえぎります。たとえ何万人のところではできても、何百万人、何千万人になるようなところを一人で推し進めるなどということは、かなり無理があるわけです。
●ハラリの言論を超えていた「疫病」の危機
本村 非常事態の場合、独裁的な要素を制度の中でどういう形で生かしていくか。私はローマ史が専門ですが、ローマの場合は独裁官(ディクタトール)というものが半年間認められて、非常事態に対処できるようになっていました。古代の非常事態はだいたい戦争でした。
もし、日本にもそういう制度があれば、首相なり誰か適当な方に直面する問題の対処のしかたを一任するでしょう。ただ難しいのは、感染防止対策として誰かが独裁的に振る舞うことは相応の知識を持っていればできるかもしれないけれども、一方で経済活動があるところです。両者のバランスを取っていくことは、とてもではないけれど一人の力ではなかなかできないわけです。
このように相反することを、どの程度お互いに認めながらやっていくのか。今後考えられるのは、数年前から注目されているユヴァル・ノア・ハラリというイスラエルの歴史学者です。
『サピエンス全史』『ホモ・デウス』『21 Lessons(トゥエンティワン・レッスンズ)』と相次いでベストセラーになる作品を発表しています。彼はこう述べています。「われわれは、特に先進諸国では飢饉も疫病も戦争ももはや克服した。それを前提に、今後はどのようにやっていけばいいのか」。このような内容でしたが、非常に説得力がありました。
しかし、疫病に関しては必ずしもそうではなかったということが、今年2020年になって非常に鮮烈に出てきたわけです。コロナ自体はこの1~2年で終息するにしても、おそらく別の形でまたこうした問題が出てくるだろうということを改めて思い知らされたのが現状です。
ハラリが主張したのは、飢饉などは、今現在でもどこかの地域では起こっているかもしれませんが、地球規模のグローバル化が起きている現在、飢饉あるいは戦争であれば、その地域に対して他の地域から援助をすれば、かなりの人々が助かるということです。また、戦争に関しては、いわゆる世界大戦のようなものはもう考えにくくなりました。今世界大戦をやると、地球規模での全滅につながりかねないからです。ただ、局地戦は今でも、中東やアフリカなどで実際に行われています。
先進諸国では飢饉と戦争に関してはほぼ克服できたし、今後起こったとしてもローカルな次元で抑え込むことができるということです。ところが、感染症はそうはいかなかったわけです。初期段階にローカルな次元でやればできたのかもしれないけれども、ここまでくると、それはもはや難しいでしょう。
●古代ローマの独裁官から考える緊急事態での「独裁的な要素」
本村 グローバル化された世界においては、今後こういう非常事態や緊急事態はまた起こらざるを得ません。そのときに備えて、どういう形で独裁的な要素をわれわれの政治の制度の中に盛り込んでいけるのか。それが、一つの大きな課題になるのではないかと思います。
少なくとも短期的に見る限り、今回はかなり独裁的・強圧的にやったところのほうがう...