●ペリー来航時の幕府にもさまざまな優秀な人材が存在した
そして、猛将ペリーが巨大な蒸気船に乗ってきて、開国を迫りました。幕府としては鎖国中なので、開国はできません。しかし、これを迎え撃つこともできず、戦えば一捻りされてしまいます。そこで、老中の阿部正弘が任命した林大学頭に交渉にあたらせました。彼は単なる町奉行ですが、ただ朱子学の林羅山を始祖とする林家11代の復斎という名前を持つ超優秀な人でした。
それから、彼と一緒に働いた川路聖謨という人もいました。彼も下級職から出世して、最後は勘定奉行にまで出世しました。彼は睡眠時間2時間で、明け方に槍のすごきを3000本、大きな棒の振り下ろしを1000本、居合の刀の素振り300本に取り組んでいました。それが終わると、漢書を読み、西洋の情報を読んで、勉強に勉強を重ねました。そうして、やがてペリーとの交渉の役を担うわけです。下級職から出世して、勘定奉行にもなったので、幕府に心から忠誠を誓っていました。西郷隆盛の説得によって、江戸城が無血開城するのを見て、もはやこれまでと、自刃して果てました。
もう一人、岩瀬忠震という人がいます。彼は、もう少し裕福な、東三河の豪族の出身です。徳川家の家来でしたが、勅許なしの条約締結を主張しました。それまで、天皇の勅許がなければ、条約の締結はできないといわれて、難航していました。そんな中、彼は条約締結のために勅許は不要だと主張して、開国しか道はないと断行したのです。
こうした人々が、他にも何人もいますが、幕府の官僚は非常に優秀なのです。なぜこのような人材がいたのか、というのも、一つ興味深い問題です。
●長州藩や薩摩藩でも優秀な人材が続々現れる
一方で、ペリーの来航は、宇宙船が来たようなものなので、全国の人が騒然となりましたが、さまざまな優秀な人々がこれを契機に台頭してきました。
例えば、有能な下級武士で、吉田松陰という人がいました。彼は、とにかくペリーの船を見たくて、小さな魚釣り船を使って、漕ぎ寄せていきました。そして、ペリーの艦隊に乗って、自分をアメリカに連れていくよう懇願しました。英語は当然話せませんでしたが、偶然ペリーの船に漢文の素養を持つ人が乗っていて、筆談でやりとりしたそうです。これには、ペリー艦隊の幹部も呆れてしまい、帰るように諭して岸に戻されました。彼は、やがて幕府から死罪を命じられ、命を落としました。
吉田松陰は高杉晋作などのさまざまな人を教えた人ですが、「草莽の志士」が日本に多くいるといっていました。「草莽の志士」とは、叢の中に虫がいるようにさまざまな場所にいる志士を指し、この志士たちが立ち上がれば、ペリーや列強の圧力に対抗できるかもしれないと繰り返し主張していたのです。
日本では、100冊以上の本を書き、司馬史観と呼ばれる独自の歴史観を打ち出した司馬遼太郎が扱った西郷隆盛や坂本龍馬などが有名です。また、明治維新政府建設の立役者であった大久保利通なども有名です。しかし、彼らのように有名ではないですが、薩長同盟実現に大きく貢献した人は、薩摩藩の家老の小松帯刀です。加えて、幕府と薩長の戦力を比べると、軍隊の規模からいえば幕府のほうがずっと大きいのですが、それでも薩長が勝利したのは、大村益次郎という天才軍師がいたからです。彼はもともと医者の出身なのですが、非常に下級の人でした。こうした人々が、陸続と出てくるのです。
さらに、後に「長州ファイブ」と呼ばれる人々がいます。長州藩は、列強の軍隊に戦いを挑んで、手痛い反撃を受けました。その一方で、この5人がトーマス・グラバーの紹介で、イギリスに密航しました。この中には、伊藤博文など、のちの政府で重要な地位を占める人々がいました。伊藤はグラバーの船で上海まで行って、そこで本船に乗り換えた際に、艦長に希望することを尋ねられました。彼はネイビー(海軍)と言いたかったそうですが、ナビゲーションと答えてしまったそうです。ナビゲーションは船の上で操縦する人という理解で、ロンドンに着くまで掃除夫を務めました。掃除夫にはトイレもありませんでした。寒い中マストを上がって行って、吹き飛ばされないように体を荒縄で縛り付けて、そこで排便をしていたという逸話があります。彼がのちの日本の首相になりますが、大変な人材ですよね。薩摩藩の密航者も19名いて、皆グラバーの紹介でイギリスに向かいました。
●英仏の植民地化を目論む動きも幕末の展開に影響を与えた
イギリスやフランスは、こうした動向をよく観察していました。当時の両国は、植民地帝国でした。アロー号事件というのは、アヘン戦争の結果イギリスが中国を事実上の植民地としましたが、その後のアロー号事件で難癖をつけて、中国への要求をエスカレートさせました。こうした過...