●1990年代に話題になった「教養とは何だろうか」
―― 皆さま、こんばんは。本日は小宮山宏先生、長谷川眞理子先生に、「現代人に必要な『教養』とは?」というテーマでお話をいただきます。どうぞよろしくお願いします。
小宮山 よろしくお願いします。
長谷川 よろしくお願いします。
―― 早速本編に入りたいと思います。実はこのテーマについて(事前に)ご参加の皆さんに質問を募集したところ、いくつかいただいています。一つはまさにタイトル通りで、「そもそも教養とは何か」ということです。
「現代において教養が重要だと各方面から口酸っぱく言われます。でも、そもそも教養とは何ですかと聞き返すと、答えられる人は案外少ない」ともいわれています。そういう中で、「では、本当の教養というものを、われわれはどう理解すればいいのですか」というご質問になります。
まず、ここを長谷川眞理子先生にお訊きしたいと思います。長谷川先生には、先日公開したばかりの「『今、ここ』からの飛躍のための教養」(2022年5月25日配信開始)という講義をいただきました。そこでかなり詳しくお話をいただいているので、ここでは手短にお話をいただけると有難いと思います。
長谷川 「教養とは何だろうか」というのは、次々に大学が教養部をやめてしまった1990年代初め頃、ずいぶん話題になりました。大学の先生たちの中でも、「それでは教養とは何か」と言い始めると、侃々諤々するばかりで駄目なので、もう定義の話はやめましょうということが多かったですね。
でも、やはり「リベラルアーツ」ということが元で、リベラルは「リベレートする(=解放する)」だから、今の自分の限界を超える、今の自分の考えの枠を超える、自分で考え、自分で決断するための基礎になるようなものということでいいのではないかと思います。
―― やはり、それらの基礎という部分なのですね。
長谷川 ものを考える基礎ということです。
●教養とは「よりよく生きるための知の力」
―― 考える基礎という今のお話を受けて、小宮山先生、その点はいかがですか。
小宮山 基本的にそうなのだろうと思いますが、私は東京大学(以下、東大)の頃にずっと3つのキーワードを言い続けてきました。それは「本質を捉える知」「他者を感じる力」、それから「先頭に立つ勇気」です。この3つをいろいろなところで言いました。
例えば、カントは「知・情・意」と言いましたし、それから「智・仁・勇」というものもある。だいたい知的なもの、情的なもの、意志や行動のような能動的なものの3つがあると思っています。
ただ、それはそうなのだけれども、今の時代性を考える必要がある。知識や情は当然重要だけれども、行動するとか動き出すなどの能動的な部分がどんどん重みを増してきている。非常に変化の激しい時代に入っているので、考えているだけではまずいのではないかという状況に入ってきているわけです。
ですから、少しそちらのほうに比重が移ってきていると、私は思っています。本質的には「よりよく生きるための知の力」というのが、テンミニッツTVでだいぶ議論してきた定義ですよね。
●イェール大学「学生便覧」で知った教養の正体
―― 今、小宮山先生からは「行動」というお話がありました。先ほどの長谷川先生のお話でも「自分で考える」「自分の限界を超えていく」ということが出ました。これも長谷川先生がこの前の講義でお話しくださいましたが、ひと昔前の日本の教養主義というのは、どちらかというと知をひけらかして、評論家的あるいは冷笑的に斜めから臨む。「いや、それは無理ですよ」と、自分でやるのではなく評論で終わってしまうというような問題提起もありました。そのあたりはどうでしょうか。
長谷川 私はちょうど日本で教養部が廃止になるような時期にイェール大学に行き、教えていたことがあります。イェール大学もそうですが、アメリカの大学のほとんどはリベラルアーツを基礎にした大学です。日本で「教養って何だろう」とワイワイ言っていた時にイェール大学に行くと、大学の「学生便覧」の第1ページにちゃんと書いてあったのです。
これまでの人間は何を探求してきたか。一つは自然科学、一つは社会科学、一つは人文学で、もう一つはさまざまな語学です。人文学は、人間について何を考えてきたか。自然科学は、自然をどう理解してきたか。社会科学は、社会をどう考えてきたか。そして語学は、世界中にどれだけ違う言語があり、違う言語があることでどれだけ世界の捉え方が違うかに関すること。そして、この全部を覆うものが教養である、と。
なぜそうした4つの分野のことを知ることが必要か。世の中で人間がこれまでどれだけいろいろなことを考えてきたかの視野を知り、歴史を知り、そして自分...