●ミーゼスが提起した「そもそも計画経済は可能なのか」
―― その一方で、先ほど少し見たオーストリア学派は非常に清算主義的といいますか、「大恐慌を機に潰れるべきものは潰れろ」という主張でした。ただ一面、マルクス主義の計画経済的なあり方はダメだと批判していたのも事実なのですね。
柿埜 オーストリア学派は評価がとても難しい人たちで、ミーゼス、ハイエクは特にそうです。「市場経済の重要性」を非常に分かりやすく説明していて、古典派的な発想の経済学には欠けていた「企業家や市場が知識を発見する上で果たす役割」という点を非常に強調します。シュンペーターの技術革新の話もそうですが、オーストリア学派の発想は現代の経済学にも取り入れられていて、非常に大事なところがあります。
ミーゼスは、「社会主義はそもそも計画経済をできるのか」という非常に重要な問題を提起した人です。社会主義は全部が国営の社会です。全部が国営ということは、価格も何も存在しないわけです。もちろん国が価格を定めることは擬似的にはできますが、価格が決まっていない状態を厳密に行う(全て国営にしてしまう)とどうなるか。
消費者の場合、消費者が何をほしいかということ(の判断)は「消費者が買うもの、買いたいものが不足するか、それとも余ってしまうか」で何とかなります。ですが原材料については、原材料自体をほしいと思う人はいません。全部が国営だったら、原材料の値段は分からない。つまり、例えば鉄をたくさん使うべきなのか、アルミをたくさん使うべきなのかということは、全てが国営だったら判断できなくなってしまうのです。
ミーゼスは「全てが国営の社会は、価格は存在しないし、資源の価値は判定できない。だから合理的な経済計画など不可能だ」ということを指摘したわけです。
新しい技術についても、企業家が「こういうものを組み合わせたら、うまいものができるのではないか」「こういうものを組み合わせたら、新しい何かが作れるぞ」と発見することについて、政府がその代わりをすることはできません。少数派の意見を、政府の官僚的な部会が「これがいい」と取り上げることは滅多にないし、取り上げてもたいていが無茶苦茶なアイデアであることがままあります。でも、誰も責任を取らないし、失敗したら誰か(の会社)が倒産するわけでもない。要するに、国営企業の経営者や社員は、何の責任も取らないわけです。損失が起こっても関係ないのです。そういった社会が豊かになるはずがない、というのがミーゼスの指摘だったのです。
これは当時の社会主義者にも衝撃を与えて、「どうしたらいいのか」という議論になったのですが、社会主義者は「価格っぽいものを作ればいい」というどうしようもない結論で落ち着きました。けれども、実際に競争している企業家がいないのに、価格っぽいものを作ってもうまくいきません。だからソ連は結局、うまくいかなかったのです。
●計画経済は「隷属への道」だと一蹴したハイエク
柿埜 ミーゼスはそういった点を指摘したのですが、ミーゼスの弟子であるハイエクは、「そもそも計画経済は(ミーゼスも同じようなことをいっていますが)全体主義になってしまう」ということを指摘しました。これはミーゼスの論点を継承したものですが、計画経済で集められる知識は限られたものでしかあり得ません。個々の人が自分の持っている知識を生かして、自由に市場で行動したほうが、政府が全部の情報を集めようとして(たいした情報は集まらないのですが)計画経済を膨大な手間をかけてやるよりも、よほど効率がいいわけです。
そういった市場経済という仕組みを捨ててしまったら、つまり個々の人がバラバラに意思決定をして社会全体をうまくまとめる仕組みである市場経済を放棄したら、政府が全部を決定する仕組みになってしまいます。
計画経済とは結局、そういった仕組みです。多少分権的に「地方で計画経済を行う」などという発想をする人もいますが、それは結局、無理です。経済全体の整合性が取れなくなってしまうので、最終的にはやはり全体主義的、中央集権的になってしまいます。
そのような計画経済を行うと、意思決定を全部、中央の政府が行う、あるいは、とにかく意思決定をする人がそこに集中します。そうすると、その権力を目指して野心家が集まってくるし、当然、非常に独裁的な政治家が最後は権力を握ってしまうのです。
マルクス主義の人たちも、計画経済を望む人たちもそうですが、「理想的な賢人が政治を行う」と思っています。あるいは「素晴らしい人たちが皆で和気あいあいと政治を行う」と。でも、現実にそうなったことは一度もありません。 例外なく全て独裁になって、しかもスターリンやポル・ポト...