●重商主義の始まり――「経済には法則がある」という気づき
―― いよいよ深掘り講義に入っていきたいと思います。古典派経済学の話に入る前に、経済はどのように考えられていたかについて、ここではよく教科書で聞いた記憶のある「重商主義」と「重農主義」がどういうものなのかということをお聞きできればと思います。
重商主義は16世紀から18世紀頃にかけて、重農主義が18世紀頃ということですが、これはそれぞれ、どのように理解すればいいのでしょうか。
柿埜 重商主義について、彼らは自ら重商主義と名乗ったわけではなく、アダム・スミスの後の人たちが「少し間違っているよね」ということで付けたレッテルです。ですから、統一的な考え方があるわけではないので、重商主義と呼ぶのは少し気の毒なところがあります。
経済学が登場する前の時代、例えばプラトンやアリストテレスも経済の話はしていました。ですが、「何が正しいことで、その正しいことを皆に強制するにはどうしたらいいか」という議論をしていたのです。「経済に法則がある」という発想は、実はなかったのです。
それが、「経済とは、もしかしたら正義や政治といったものとは別の学問なのではないか」ということを考え始めたのが、重商主義です。その点では彼らは偉かったのですが、ところがある意味では、変な考え方に入ってしまいました。現代の、普通の経済評論家がおっしゃっていることですが、それはときどき「重商主義の発想」であるということがあります。
―― どういうことですか。
柿埜 例えば、「どこかの国が繁栄していたら、他の国はその犠牲になっている」といったものです。重商主義とは基本的に、「貿易黒字をため込んで、貨幣がどんどん入ってくる。そうすると国は豊かになる。なぜかというと、お金とは富だから」という発想なのです。
―― お金の量が世界で決まっていて、例えば英国が全部取ってしまったら、他の国が貧乏になりますよ、と。
柿埜 そうです。要するに、「何らかの生産活動があり、それが経済活性化の源泉だ」という発想はあまりありません。特に初期の重商主義者はそうです。ですから、完全なゼロサムの発想をしている人がすごく多かったのです。つまり、「自分の国が豊かになるには、他の国から貿易でどんどん仕事を取らなければいけない。自分の国が貿易で繁栄するということは、他の国は貿易で貧乏になるということだ」と。
●重商主義の終わり――皆が気づき始めた2つの「おかしい」
柿埜 この発想は現代でもとても根強いのですが、「これはおかしいのではないか」ということが重商主義の終わり頃から、だんだんと皆が気づき始めるわけです。
―― どうしておかしいと気づき始めたのですか。
柿埜 これはその後、古典派にもつながってくる話なのですが、そもそも貿易をする理由は相手の国と自分の国が取引して、それで「自分(の国)が得する」ためです。貿易に限らず、取引とは基本的にそのような活動ですね。
―― そうですね。
柿埜 自分が買い物に行って、「この商品、いいな」と思って買ったら、自分が得しているわけですよね。自分が必要だから買っているので。
―― 自分が必要ですし、それを使うことで良いものが享受できることになるわけですね。
柿埜 そうです。売っている側も当然、それを売ることによって得しているわけです。だから、こういった活動は「双方が得をする活動なのではないか」ということを、だんだんと皆が分かってきたというのが1つです。
もう1つは、貿易黒字で貨幣の量をどんどん増やした結果、どうなったか。当時は金が貨幣だったので、次々に外国から金をため込むという方法を取れば国は豊かになると思っていたら、物価が上がってきてしまった。これは後で説明しますが、物価が上がってきたということは、要するに「貨幣の量と物価は関係がある」(これも「古典派の発想」の重要な点です)ので、物価が上がってしまうという現象に皆、気がついたわけです。つまり、貨幣をたくさんため込んでも、もともとの生産能力がなかったら、国は豊かにならないのではないかということに、皆が気づいてきたのです。
●経済は「自由放任(レッセフェール)が良い」
―― それで「重農主義」の考えがその後に出てきたということですか。
柿埜 そうです。フランスで重農主義(physiocracy)が提唱されます。重農主義とは翻訳で、もともとは「自然の支配、自然の法則の研究」のような意味です。
―― なるほど。
柿埜 この考え方はケネーというフランス人が主な提唱者ですが、フランスでこの考え方が登場したことには理由があります。フランスは、実は重商主義の一番ひどいものがそれまでずっと実行された国だったのです。
コ...