●古典派経済学の柱は「自由貿易」と「貨幣数量説」
―― 次に、古典派経済学の特徴です。これはどのように考えればいいでしょうか。
柿埜 基本的には、今(第3話)お話ししたように、古典派の考え方は、アダム・スミスの「自由な市場が基本的にはうまくいく」という考え方を発展させたものです。古典派の基本的な考え方はいくつかあるのですが、簡単にいうと、第一に「自由な取引、自由な貿易が原則的に望ましいものである(1)」ということです。
もう1つ、重要なポイントがあります。重商主義の考え方とは違って、「経済は貨幣がなければ成り立たない。取引をうまく行うには、物々交換だとうまくいかない。お金がないとうまくいかないので、貨幣が存在することは重要なのだけれども、貨幣の量を無茶苦茶に増やせばインフレになる(物価が上がる)だけである。逆に滅茶苦茶に減らしたらデフレになってしまう。要するに、貨幣と物価は長期的にはつながりがある。だから、貨幣だけを増やせばいいというものではない」というものです。
貨幣は長期的には中立的になるのですが、ただ短期的には景気に影響するということを、古典派は認めていたのです。
―― その「短期的に」「長期的に」とはどういうことなのでしょうか。
柿埜 経済の規模やその能力は、社会全体が持っている技術や資本の量といったもので決まります。例えば、貨幣の量が倍の国がどこかにあったとしても、あるいは半分の量の国があったとしても、長い目で見ると、物価は違うかもしれないけれども経済の能力自体は変わりません。
ですが、短い期間でみると、貨幣の量がいきなり半分になったら、今まで「これだけの量の貨幣がある」という前提で取引していたものが急に貨幣が足りなくなるので、非常に混乱して、ものの値段を下げたりしなければいけなくなる。お金(貨幣)が足りなくなれば、お金の量に合わせて決まっていた「ものの値段」は下げなければいけなくなるということです。
だから短期的には、貨幣の量が増えたり減ったりすることは大きな混乱をもたらします。貨幣が劇的に増えたら景気はものすごく良くなるし、逆に劇的に減ったら景気は一気に悪化して崩壊してしまいます。短期的にはこういった影響があるのですが、長い目で見ると(つまり、こういう混乱が全て調整された後で見ると)、貨幣の量自体は、実は経済にはあまり影響がない、というのが古典派の考え方です。
これは、スミスというよりはリカードやジョン・スチュアート・ミル、スミスより少し前のヒューム(スミスの友人であり、哲学者でもあります)の考え方です。また、フランスの経済学者である、ジャン=バティスト・セーも主張したことです。こういった(2)の「貨幣数量説」(貨幣数量理論といったほうが私は適切だと思います)は、基本的に古典派の柱の1つでした。
●古典派の限界…現代では通用しない「労働価値説」
―― 続きまして、(3)の「資本蓄積の強調」という箇所です。
柿埜 今言った(1)の「自由な市場経済がうまくいく」ということ、(2)の貨幣数量理論は、私自身、正しいと思っていますし、現代でも通用する考え方です。けれども、ここから先はイマイチなので、簡単に説明します。
古典派の考え方は、「投資をして工場が次々と建てば、経済はよくなる」というものです。要するに、技術革新や、起業家が新しいことを考えるということに関して、スミスからミルあたりまでの古典派経済学では、その発想がやや乏しいのです。だから、資本が増えればとにかく経済は豊かになるだろうということです。
その次は、(4)の「労働価値説」という考え方です。これは「商品の価格は、どれだけ労働を投入したかによって決まる」というものです。「働かないと何もできない」という発想は結局、ここから来ています。直感的にはもっともなところもあるように思えますが、よくよく考えると非常におかしいことを言っています。
―― そうですね。
柿埜 労働時間が長ければ、その商品の価格が高くなるかというと、必ずしもそうではありません。資本など他の要素も当然、あるわけです。そもそも労働時間が長いからといって、(消費者が商品を)欲しいと思うかというとそうではなく、皆がそれに価値があると思うから、それを欲しいと思う。それから「効用」を感じるから欲しいと思うということです。
この労働価値説は、どういうわけかスミスが「これがいい」と言い、その後の人たちも皆、従ってしまったので残ってしまいました。古典派の中には、ジャン=バティスト・セーがそうですが、「おかしいのではないか」と思っている人が少しはいたのですが、このあたりは曖昧になってしまいます。
―― 農業であったり、軽工業の分野だっ...