●「労働価値説」に向けられた批判
―― そのような流れを受けて、マルクスも依拠した「労働価値説」の問題性が指摘されていくことになるのですね。
柿埜 先ほどもお話しした通り(第5話)、異端の経済学者はたくさんいたわけですが、異端派の経済学者たちは、どうしても主流になれませんでした。どうして主流になれなかったかというと、魅力的な選択肢、代替案がなかったからです。
―― それは、どういうことですか。
柿埜 「古典派におかしいところがある」といえば、それはおかしいところはあったかもしれません。というか、確かにありました。だけど、「具体的にどう考えればいいのか」ということに関して、それほど説得力のある選択肢を示せたわけではなかったのです。
―― なるほど、そういうことですね。
柿埜 マルクス主義も「とにかく資本主義は悪い」というのだけど、社会主義は具体性がなくボンヤリとしていました。そのような状況で、古典派はずっと続いたのですが、「そもそも古典派やマルクス主義が依拠している『労働価値説』がおかしいのではないか」ということが、だんだんと指摘されるようになってくるわけです。
ジョン・スチュアート・ミルは、労働価値説に関して「もう経済学が書くべきことは何もない。完全な理論ができている」と満足げに書いていたのですが、彼がそう書いてほんのしばらくして、それは全部ひっくり返されてしまいます。
―― だいたいそういうことを書くと、ひっくり返されることになるのが世の常ですね。
柿埜 自己満足していた労働価値説がおかしいのではないかという意見が出てきて結局、これがひっくり返るわけです。特に1870年代に「限界革命」といわれる一連の動きの中で、そういったことがはっきり指摘されるようになってきます。
実は本当は、それ以前から正しい主張(限界理論)はあったのですが、あまり表に出てこなかった。それが強く前面に出されるようになります。
●「限界」とは、「追加の1単位」のこと
―― これ(限界理論)は分かりづらい話ですね。
柿埜 「限界」という単語自体が分かりづらい。これはメンガーの弟子であるヴィーザーがつくったのですが、経済学専門用語なので分かりづらいのです。
先ほど(第4話)、「水とダイヤモンドの価値」というお話をしました。水はとても価値があるのにとても安い。ダイヤモンドは大して価値がないのにすごく高い。だから、皆が効用(価値)を感じることは、価格を決める要因ではないのだ、というのが古典派の考え方でした。「労働投入」が決めているのだ、というわけです(ただ、「労働投入」でもあまりうまく説明できないと思いますが)。そうではないことを、限界革命の人たちは気づいたわけです。
どういうことかというと、水全体の価値とダイヤモンド全体の価値を比較しているから、パラドックスになってしまう。実際には「水全体を選ぶか、ダイヤモンド全体を選ぶか」などいう選択を、われわれは日常的に行ってはいません。一生、水なしで暮らすか、ダイヤモンドなしで暮らすかなどいう選択を迫られたら、誰だってダイヤモンドを捨てて水を取りますよね。
―― そうですね。おっしゃる通りです。
柿埜 実際にはこれは、「全体の効用」=「総効用」と、「限界的な効用」=「今、1単位消費するときの効用」を区別していないから起こる間違いなのです。
―― 「限界」とは、単位というか、規模感の問題なのですね。
柿埜 そうです。今、持っているものに加えて、さらに追加的に1個消費を増やす。つまり「限界」とは「ほんの少し」という意味なのです。
だから、「私は水を飲みますが、加えてさらにもう1杯水を飲むことの価値はどれくらいか」、それで価格を決めているわけです。つまり、今、持っている分に加えて、ほんの少し増やしたときにどれだけ価値があるかが、価格を決める要因なのです。これを「限界効用」という言い方をします。
ダイヤモンドは少ししかありませんから、さらに1個ダイヤモンドを買うことの価値はすごく高いわけです。
―― もともとが少ないからということですね。
柿埜 そうです。全体の効用は小さいけれど、最後の1単位の効用はすごく高いから、ダイヤモンドの価値は高い。だけど、水はすでにたくさんある。さらに1杯、追加的に水を買うことの価値は低い。だから水は安いのです。
だけど、砂漠のど真ん中で水を売っていたら高く売れますよね。これは、さらに追加的な1杯の水の価値がものすごく高いからです。砂漠では水は少ししかないですから。
このように、「限界的な効用」と「総効用」を区別することによって、水とダイヤモンドのパラドックスという、労...