●狭まる政策余地と世界経済の分断化
前回まで、パンデミックの発生に伴う世界経済危機が起こり、一時はデフレの危機にあった経済がさまざまな要因によりインフレが顕著になってきたことを説明しました。そして2021年までは、このインフレが一時的なものと捉えられていたのです。しかし2022年に、さらに状況は変化していきます。
2022年2月にウクライナ戦争が始まりました。このウクライナ戦争が世界経済に甚大な影響を及ぼすと、当初はあまり理解されていませんでした。しかし、ロシアからの天然ガスの供給が減少し、世界のエネルギー価格が急激に上昇しました。アメリカでもガソリンの値段がリッター当たり日本円で換算すると220円近くになり、日本のガソリン価格よりも高くなる時期もありました。また、ウクライナやロシアからの食料輸出が減少し、食料価格の急騰もインフレの押し上げ要因になりました。
インフレの背景に、サプライチェーンの分断、消費者が買い控えを終えて一気に消費に走るペントアップ需要の増大、賃金の上昇というこれまでの要因に加え、エネルギー価格、食料価格の上昇という要因が重層的に加わり、インフレ圧力は高まりを見せていきます。一時的と思われたインフレは、もはや一時的なものではなくなりました。
2022年の春以降、世界経済の問題点が明確になってきました。まずはこれまで見てきたように、インフレ期待の高まりと金融の引き締めが挙げられます。2022年に入り、インフレは「一時的」ではなく、インフレ期待が中央銀行の物価目標から逸脱するリスクが高まっているとされました。先進国の金利引き上げに伴い、新興・途上国では借入環境等が困難化したり、資本の流出といった金融環境の変化が懸念される事態になりました。これを「国際金融環境のタイト化と資本流出の可能性の高まり」とIMFは表現しました。
次に財政面では、パンデミックによってすでに多くの国で政策余地が狭まり、支援の段階的撤廃が進む状況にあります。足下の1次産品価格の高騰と世界的な金利上昇によって政策支援の必要性が高まるものの、石油・食料輸入国を中心に財政余地は限定的になってきます。これまで財政支出の増加に伴い債務が増加してきたことに加えて、金利の上昇とともに債務の持続可能性に関する問題を抱える途上国の増加が懸念されるようになりました。
そして、特に国際経済システムを考える際に重要なのは、テクノロジー基準や決済制度、通貨等において、地政学的ブロックにより分断化されるリスクが、このウクライナ戦争によってより高まってきたことです。経済の分断により、長期的な経済効率性の低下を招き、さまざまな経済活動や価格の変動を表す「ボラティリティ」を増大させ、過去75年にわたって国際・経済関係を規定してきた「ルールに基づく枠組み」に重大な懸念が生じています。グローバリゼーションは終わったのかという議論も出てきました。
さらに、食料やエネルギーの供給不足からくる社会不安や、2021年に盛り上がりを見せたCOP26の流れを汲む気候変動問題などが世界経済の主要課題とされたわけです。
●インフレをなぜ「一時的」と見誤ったのか
2021年までIMFや中央銀行は、「インフレは一時的」という見方を繰り返していました。その一時的という見方から、2022年に入り「当面持続する問題だ」という見方に変わりました。IMF、中央銀行はなぜインフレが一時的なものだと見誤ったのでしょうか。
2022年8月、各国の中央銀行総裁や主な国際金融の関係者が集まる恒例のジャクソンホール会議の中で、IMFのゴピナート筆頭副専務理事がスピーチを行いましたが、これはおそらく大変歴史的なスピーチとなると思います。とても長いスピーチですが、その概要をお伝えします。
30年以上にわたり、先進国、新興国ともにインフレ率は低下傾向にありました。これを「グレート・モデレーション」と呼んでいます。欧米諸国では、今般のインフレ状況の前の時期までは生産に対して需要が高まるとインフレ圧力が高まるはずなのに、インフレ率は安定していました。グレート・モデレーションの時代になると、総需要が高くなり失業率が低下すればするほど、物価や賃金が上昇するというそれまでの理論的な関係に構造的な変化が起きたのだと認識されるようになりました。
高い総需要GDPの成長が見られても、インフレが起きないことの背景として、グローバル化や規制緩和に伴う競争環境の変化、人口動態、生産性上昇の鈍化、安全資産への強い需要などの要因が挙げられ、この30年近くにわたり経験則として広く裏付けられてきました。
2008年から2009年にかけての世界金融危機、いわゆるリーマン・ショック後の回復...