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戦後、奈良本辰也は吉田松陰を「敗者」と捉えた

吉田松陰の思想(上)松陰像の変遷(2)国士・敗者・ヒューマニズム

中島隆博
東京大学東洋文化研究所長・教授
情報・テキスト
多様な吉田松陰像は、その時代の空気を鮮やかに映し出す。明治から戦前にかけて流布したナショナリスト・松陰というイメージは、戦後になると孟子の性善説に基づいたヒューマニスト・松陰へと変化した。東京大学東洋文化研究所教授・中島隆博氏が、時代によって松陰像が異なっていく理由を、田中彰氏の『吉田松陰 変転する人物像』を手引きに明らかにしていく。シリーズ「吉田松陰の思想」第2回。
時間:11:45
収録日:2015/02/26
追加日:2015/07/16
≪全文≫

●戦前―ナショナリスティックな松陰像


 もう一度、田中彰先生の話に戻ります。明治41(1908)年に、帝国教育会が松陰没後50年という記念大会を行っています。この記念大会の演説者には徳富蘇峰も含まれていますが、東京帝国大学の哲学の先生だった井上哲次郎、それから嘉納治五郎といった人々が、松陰没後50年の記念大会に参加しています。ここで、明治における松陰の位置が大体定まっていったのだろうと思います。

 その後に、松陰という思想家は、ある意味でナショナリスティックな価値を体現する人物として利用されていく側面が出てきたのだろうと思います。田中先生が指摘しているように、松陰の国士的側面がこの時代から強調されていきます。例えば、田中先生は、安岡正篤の『吉田松陰と国士的陶冶(とうや)』という論文から、こういう引用をしています。

 “凡(およ)そ我等日本の民なるかぎり、内なる神――あきつかみ(現神)――あらひとがみ(現人神)に奉仕するを光栄とする。内外合一――主客一致――物心一如の理法はわが国家に於て明きらかに証されて居る。松陰は徹頭徹尾この光栄に生きた醇乎(じゅんこ)たる日本国士である。”

 (総じて私たちが日本人である以上、天皇に奉仕することは光栄である。わが国では、内と外、主体と客体、物質と精神が一致する(=天皇と日本国民が一つになる)ことは、明らかに証明されている。松陰は徹底して、この光栄に生きた純粋な日本国士である。)

 これは、安岡の松陰像そのものを非常に的確に表したものだと思います。日本は近代陽明学を発明し、それを軸にして近代思想を組み立てていきますが、安岡正篤はその陽明学の研究者としても有名ですし、それを社会的な実践に生かしていった人です。後に新官僚といわれる人たちの精神的な支柱になっていくのが、この安岡という人物です。その安岡が、大正13(1924)年時点で松陰のことをこういう形で定義しているのは重要なことだと思います。

 その後、尋常小学校の教科書の中でも、松陰は取り上げられるようになります。松陰は日本の国体を明らかにし、皇室を尊んだ立派な人物である、お国のために尽した人物であるといった言い方がされます。また、「松陰主義」という言葉までつくられ、個人主義を捨てて、天皇のためお国のために、力の限り働くという考え方として「松陰主義」が賞揚されるようになっていくのです。

 ですから、戦前は、蘇峰の改訂版からナショナリスティックな松陰像へと急速に変わっていったのです。当然、これは、あの時代がそのような松陰像を必要としたということだろうと思います。


●敗戦下―松陰の再生力を日本に託す


 しかし、昭和20(1945)年をきっかけに、松陰は語られなくなります。松陰は戦前の軍国主義をある意味で支えた思想家として捉えられたため、戦後になると松陰に関する著作は、ぱたっと出なくなります。それまで、松陰に関する書籍は毎年たくさん出版され続けるという現象があったと思いますが、1945年を境にぱたっと出なくなり、皆、口を閉ざしてしまうのです。

 その沈黙を破ったのは、奈良本辰也の『吉田松陰』でした。これは昭和26(1951)年の著作です。この内容に関しては、後でまた申し上げようと思いますが、田中先生にとっても、この著作はある種の衝撃だったようです。この著作によって、松陰が再び語られるようになりました。一体それはどういうことなのか。田中先生は、こう述べています。

 “「奈良本松陰」は、時代に対決して失敗した、いわば敗者としての思想的、政治的実践者としての松陰に、その人間像をみようとしたのである。

 とすれば、それは戦争に敗れた日本、敗者としての日本と松陰とを重ね合わせ、権力による死罪にもかかわらず、みずからの理念に生きようとした松陰の再生のエネルギーを、占領下、再び立ち上がろうとする日本に託そうとしていた、と読みとることができる。”

 これは、奈良本による、松陰像の大きな転換です。「松陰は失敗をした思想家である」と徳富蘇峰は言いましたが、今度はその失敗を、敗戦した日本が立ち上がっていく姿に重ね合わせて読んでいく、そういう試みを、奈良本辰也は行ったのだと、田中先生が言っているのです。


●田中彰の松陰像―ヒューマニスト・松陰


 では、松陰がどのように読まれてきたかを丁寧に検討した田中先生自身は、松陰をどう見ていたのでしょうか。田中先生は、このように述べています。

 “松陰が松下村塾で、周知のように出身や貴賤にかかわらず、一人ひとりを個性のある人間として対等に扱ったのはなぜなのか。獄中の人々の罪は「疾」のごときもので、治せばよいのだと、性善説の上に立って獄中教育をし、彼らの釈放に尽したのはなぜなのか。なぜ、被差別の人たちを「平人同...
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