社会人向け教養サービス 『テンミニッツ・アカデミー』 が、巷の様々な豆知識や真実を無料でお届けしているコラムコーナーです。
DATE/ 2017.04.20

人を殺してはいけない理由を説明できますか?

 皆さんは、たとえば自分のお子さん、あるいは知り合いのお子さんから「なぜ、人を殺してはいけないの?」という質問をされたことがありますか。唐突にこう質問されると実際にどう答えていいか、迷ってしまいますよね。

 ではなぜこの質問を最初にあげたのかというと、この質問を入口に「道徳と多様性は両立するか」という超難問にチャレンジしている、東京大学大学院工学系研究科バイオエンジニアリング専攻教授・鄭雄一氏の取り組みを紹介したかったからです。

 鄭氏は、多種多様な価値観がうずまくグローバリゼーション時代の今だからこそ、道徳を根本から見つめ直す必要があると考え、道徳と多様性の両立について疑問点の検出と分析という形で科学的アプローチを試みました。

「殺人」を例に道徳の未解決問題を考える

 鄭氏はまず、既存の道徳の未解決問題を考えるために「殺人」を例にとり、「なぜ、殺人はいけないのか」と「なぜ、戦争や死刑では殺人が許容されるのか」という二つの疑問から考え始めました。これらの問題の答えはいずれも大きく二種類のタイプに分かれます。それは、「社会」を理由の中心におくものと「個人」を理由にするものです。

 神とか国の権力者とか、とにかく社会を支配する権威ある存在が、社会を守るために「殺人はいけない。戦争、死刑は社会を守る行為だから許される」と決めたという考え方と、「死にたくないから自分も皆も殺人はいけないと考える。でも、自分が殺されないためには戦争や死刑は認める」という考え方があるのです。

突き詰めると「道徳の空白」にたどり着く

 しかし、そもそも殺人を禁じていない社会など現代の社会にはないわけですから、「許容される殺人=戦争や死刑」ということ自体が大きな矛盾をはらんでいることとなり、さらに「では、人類全体に共通する道徳原理はないのか」という第三の疑問が生じます。人を殺してはいけないのは自明のことですが、戦争や死刑が許容される理由をきちんと説明できないと、「殺人はいい場合も悪い場合もある」とか「時と場所が変われば、善悪の区別、道徳観も変わる」ということになってしまいます。

 鄭氏は三つの疑問が見出した道徳的矛盾を「道徳の空白」と言います。世はグローバリゼーションの時代、あらゆる境界は消えつつあると言われながら、世界を貫く道徳体系はいまだ存在しないということなのですね。

過去の道徳モデルを分析する

 「空白」という既存の道徳の問題点が分かったところで、鄭氏がとった次のアプローチは過去の道徳思想、道徳モデルの分析なのですが、どうやらここでも「社会」と「個人」をキーワードにすると整理がしやすそうです。

 一つ目の道徳モデルは社会に重点を置くもの。宗教とか伝統、習慣に基づく「理想の社会」という枠組みがあり、そのなかで決まった道徳があるというモデルです。「○○しなければいけない」「○○してはいけない」がはっきりと決まっていて、それを守ってさえいれば社会は非常に安定します。ただし、与えられた特定の枠組みからはみ出すことは決して許されず、まるごと受け入れる必要があります。鄭氏はこれを「社会を神格化」と定義します。

 これに対立するのが個人に重点を置く道徳モデルです。鄭氏によれば、それは17世紀のフランスの哲学者デカルト以前と以降で様相が異なるとのことなのですが、いずれにしても「道徳は個人個人が決めるもの」という考え方であることに変わりありません。個人と社会を切り離し、しかも社会より個人を上位に位置づけるというのが特徴です。特にデカルト以降は、主役は「自由で理性を有する個人」となりました。「個人の神格化」です。

導きだされた結論は「道徳と多様性は両立しない」

 こうして、過去の道徳モデルを比較してみるとそれぞれの特徴も欠点もはっきりと見えてきます。社会に重点を置くモデルは理想の社会の枠組みが明確で安定している、迷いがない。しかし、異なる枠組みをもつ社会と衝突すると紛争を引き起こしかねないということになります。

 個人に重点を置くモデルは、「道徳は個人が決める」と考えますから、それぞれの理性を重んじ、とても自由です。それだけに、具体的な道徳律、「○○をしてはいけない、○○をするべきだ」といったものがなく、まとまり、決定力に欠ける。紛争が起こってもただ傍観するだけになってしまいます。

 つまり、社会重点モデルは多様性を担保できず、個人重点モデルは道徳性を担保できないということになり、「道徳と多様性は両立できない」という分析結果が導き出されるのです。

グローバリゼーションのなかで私たちに求められること

 たしかに、道徳と多様性の両立は難しい問題かもしれません。しかし世界では、科学技術をはじめ、さまざまな分野でボーダレス化、グローバリゼーションが進み、私たちが今後異なる価値観、道徳に接する機会はますます増えていくはずです。少なくとも「自分の当たり前が相手の当たり前」という先入観を捨てること、自分個人や自分が属する社会の道徳が世界共通ではないと認識することが、私たちに最低限必要なことなのではないでしょうか。
~最後までコラムを読んでくれた方へ~
物知りもいいけど知的な教養人も“あり”だと思います。
明日すぐには使えないかもしれないけど、10年後も役に立つ“大人の教養”を 5,600本以上。 『テンミニッツ・アカデミー』 で人気の教養講義をご紹介します。
1

日本でも中国でもない…ラストベルトをつくった張本人は?

日本でも中国でもない…ラストベルトをつくった張本人は?

内側から見たアメリカと日本(1)ラストベルトをつくったのは誰か

アメリカは一体どうなってしまったのか。今後どうなるのか。重要な同盟国として緊密な関係を結んできた日本にとって、避けては通れない問題である。このシリーズ講義では、ほぼ1世紀にわたるアメリカ近現代史の中で大きな結節点...
収録日:2025/09/02
追加日:2025/11/10
2

知ってるつもり、過大評価…バイアス解決の鍵は「謙虚さ」

知ってるつもり、過大評価…バイアス解決の鍵は「謙虚さ」

何回説明しても伝わらない問題と認知科学(3)認知バイアスとの正しい向き合い方

人間がこの世界を生きていく上で、バイアスは避けられない。しかし、そこに居直って自分を過大評価してしまうと、それは傲慢になる。よって、どんな仕事においてももっとも大切なことは「謙虚さ」だと言う今井氏。ただそれは、...
収録日:2025/05/12
追加日:2025/11/16
今井むつみ
一般社団法人今井むつみ教育研究所代表理事 慶應義塾大学名誉教授
3

「宇宙の階層構造」誕生の謎に迫るのが宇宙物理学のテーマ

「宇宙の階層構造」誕生の謎に迫るのが宇宙物理学のテーマ

「宇宙の創生」の仕組みと宇宙物理学の歴史(1)宇宙の階層構造

宇宙とは何かを考えるうえで中国の古典である『荘子』・『淮南子(えなんじ)』に由来する「宇宙」という言葉が意味から考えてみたい。続いて、地球から始まり、太陽系、天の川銀河(銀河系)、局所銀河群、超銀河団、そして大...
収録日:2020/08/25
追加日:2020/12/13
岡朋治
慶應義塾大学理工学部物理学科教授
4

なぜ空海が現代社会に重要か――新しい社会の創造のために

なぜ空海が現代社会に重要か――新しい社会の創造のために

エネルギーと医学から考える空海が拓く未来(1)サイバー・フィジカル融合と心身一如

現代社会にとって空海の思想がいかに重要か。AIが仕事の仕組みを変え、超高齢社会が医療の仕組みを変え、高度化する情報・通信ネットワークが生活の仕組みを変えたが、それらによって急激な変化を遂げた現代社会に将来不安が増...
収録日:2025/03/03
追加日:2025/11/12
5

日本は素晴らしい歴史史料の宝庫…よい史料の見つけ方とは

日本は素晴らしい歴史史料の宝庫…よい史料の見つけ方とは

歴史の探り方、活かし方(1)歴史小説と史料探索の基本

「歴史を探索していく」とは、どういうことなのだろうか。また、「歴史を活かしていく」とはどういうことなのだろうか。歴史作家の中村彰彦氏に、歴史を探り、活かしていく方法論を、具体的に教えてもらう本講義。第一話は、歴...
収録日:2025/04/26
追加日:2025/11/14