テンミニッツTV|有識者による1話10分のオンライン講義
ログイン 会員登録 テンミニッツTVとは
社会人向け教養サービス 『テンミニッツTV』 が、巷の様々な豆知識や真実を無料でお届けしているコラムコーナーです。
DATE/ 2023.11.09

こんなに読みやすい!『奇跡のフォント』誕生と感動の物語

 朝、目が覚めて、スマホのアプリでその日の天気予報を調べる。朝食をとりながら新聞を流し読みする。仕事へ向かう途中、満員電車に揺られながら目に入ってくる広告の文字列をぼんやり眺める。会社に着くとまずはパソコンを立ち上げ、メールをチェックする……。何気ない1日の始まりですが、この一連の行動を通じて常に目に触れているものがあります。それは文字であり、そして印刷や画面表示に使われている文字(つまり書体)のことをフォントといいます。

 私たちの身の回りにはいろいろな文字、つまりフォントがあふれています。可読性が高いものからデザイン性に優れたものまで、フォントの種類はさまざまです。

 しかし、このフォントの種類によっては、文字が読みづらかったり、場合によっては読むことすら難しかったり、あるいは強いストレスを感じたりする人たちがいることはご存じでしょうか。それはロービジョン(視覚障がい)やディスレクシア(読み書き障がい)といわれるもので、その困難さは決して珍しいものではありません。一説によると、日本語話者の5~8%がディスレクシアだといいます。これは、例えば学校の1クラスを35人とした場合、2~3人が当てはまる割合です。

 書体デザイナーの高田裕美さんは、こうした困難さを抱える人たちのために画期的なフォントを開発しました。それが「UDデジタル教科書体」です。このフォント、現在は教育現場などで大活躍しているのですが、実は開発までに8年もの歳月がかかっているのです。高田さんが教科書の読めない子どもたちと出会い、「UDデジタル教科書体」を完成させるに至るまでの道のりと、その長い年月のあいだに注がれた情熱をつづったのが、今回ご紹介する『奇跡のフォント:教科書が読めない子どもを知って―UDデジタル教科書体 開発物語』(高田裕美著、時事通信社)という書籍です。

奇跡のフォントが誕生するまでの軌跡

 高田さんは、女子美術大学短期大学部のグラフィックデザイン科を卒業後、フォントのデザイン、プロデュースを行うタイプバンクに入社。書体デザイナーとして「TBUD書体シリーズ」などさまざまな書体の開発に携わります。現在はフォントを扱う会社モリサワに所属し、教育現場や自治体を対象にフォントの重要性や役割を普及・推進する仕事をされています。

 ところで、「TBUD書体シリーズ」「UDデジタル教科書体」といったフォントの名前には、共通して「UD」という文字がありますね。これは「ユニバーサルデザイン」の略であり、「障がいの有無、年齢、性別、人種、国籍などにかかわらず、あらゆる人々が利用しやすいように設計する」という考え方を表しています。字面が大きく、線が太く、読みやすい形状のデザインがUDフォントの特徴です。

 高田さんがこのようなUDフォントの開発を進めているときに、特別支援学校に通うロービジョンの子どもたちと触れ合う機会が訪れました。そこでは、文字や図形などが拡大された特別な教科書が使われていたのです。それでも、子どもたちは見えにくそうに、顔を近づけながら読んだり書いたりしていました。

 その様子を見て、高田さんはショックを受けます。文字の印象やバランスといったデザイン以前に、そもそも文字が読めない、あるいは読みにくいことで大きな負担を強いられる人がいるという現実がそこにあったからです。

 教育現場では教科書体というフォントが使われています。正しい画数や運筆を教えるという教育上の目的から、線が太く一定なゴシック体ではなく、筆の筆法が残る楷書体をベースにする必要があるからです。

 そのため、教科書体では「とめ・はね・はらい」などの線の流れが再現されているのですが、この線の強弱がロービジョンの子どもたちにとって読みにくさを感じる原因となっていました。「この子たちが読みやすいと感じるフォントでなければ、本当の意味でのユニバーサルデザインとは言えないのでは」。このような思いが「UDデジタル教科書体」開発の原動力となったのです。

開発の困難と達成――「UDデジタル教科書体」の誕生と広がり

「UDデジタル教科書体」の開発は困難を極めるものでした。タイプバンクで「TBUDフォント」を完成させた高田さんは、それまでコツコツ続けてきた「UDデジタル教科書体」開発に本格的に取り組もうとします。そう思った矢先、自分が勤める会社の売却が決定したと告げられることになります。タイプバンクはモリサワの子会社となり、高田さんはその新タイプバンクに再雇用される形になりました。

 そこから間もなく、会社の方針で「UDデジタル教科書体」の開発をモリサワの別会社に引き渡さなければいけなくなったり、そこに「開発できない」と断られたりして、「UDデジタル教科書体」開発は二転三転します。新しい環境での仕事のやり方に戸惑いを隠せないこともあったそうで、「このまま世に出せずに終わるかもしれない」という絶望的な思いに駆られることもあったといいます。

 一筋縄ではいかない「UDデジタル教科書体」開発でしたが、苦労の末、2016年にリリースされました。これがすぐに話題を呼び、教育現場や公共施設における「文字の読みやすさ」の革命的改善へとつながりました。また、「UDデジタル教科書体」がMicrosoftのWindows 10に標準搭載されるようになったことも、広く認知されるきっかけとなりました。

「これなら読める!おれ、バカじゃなかったんだ!」

「UDデジタル教科書体」の影響として、本書の「はじめに」で印象的なエピソードが語られています。「UDデジタル教科書体」の完成から3年後、高田さんはある会社を訪れます。そこでは発達障害や学習障害などさまざまな困難を抱える子どもたちのための学習教室が運営されていました。そこのスタッフから、高田さんはこんな話を聞かされます。

「うちの教室に、ディスレクシアの小学生の男の子がいるんです。その子は普通の本や教科書では文字がうまく読めなくて、『どうせおれには無理だから』って、いつも途中で読むのを諦めていたんです」

「それで、あるときUDデジタル教科書体のことを知って、試しに教材のフォントを変えてみたんです。そしたら教材を見た瞬間、その子が『これなら読める!おれ、バカじゃなかったんだ!』って。暗かった顔がぱあっと明るくなって、その顔を見たとき、私、思わず涙がこみあげてきてしまって。その場にいたスタッフ皆、今まで男の子が悔しい思いをしてきたのを知っていたから……。みんなで男の子の周りに集まって、泣いてしまいました」

 ユニバーサルデザインは「平等な社会」ではなく「公平な社会」を実現するための考え方だと、高田さんはいいます。少数派が取り残されてしまうことなく、自分にあったやり方の選択肢が用意されているフェアな社会を目指す。そんな理想的な世界の実現に向けて、「UDデジタル教科書体」は大きな一歩となっています。

誰一人として取りこぼすことのない社会に向けて

 本書全体を貫くのは、「絶対にこの仕事をやり通したい」という高田さんの強い熱意です。困難に直面しても諦めなかった結果、高田さんはフォントという形で社会に大きな変化をもたらすことになりました。本書は、「UDデジタル教科書体」が世に出るまでの物語を通じて、影響力をもつ仕事をするためにはどのような姿勢が必要なのかを教えてくれます。

 他にも、ロービジョン研究の第一人者である中野泰志さんの協力や、学習障害研究者である奥村智人さんとの出会いなど、「UDデジタル教科書体」を通じた広がりについても読み応えがあります。こうした専門家たちの執筆したコラムも本書の魅力のひとつです。

 さらに、本書の最後には高田さんが日頃行っているセミナーをもとにした特別章が用意されています。実はテンミニッツTVのスタッフも「UDデジタル教科書体」を仕事で使っているのですが、ここで解説されている「UDデジタル教科書体を効果的に活用するためのチップス」はとても参考になりました。書体デザイナー自らの解説として価値のある情報です。

 本書は、「UDデジタル教科書体」が開発されるまでの物語を通じて、私たちが目指すべき社会のあり方を考える手がかりを与えてくれます。誰一人として取りこぼすことのない公平な社会。そのような社会の実現は“奇跡”に近いのかもしれません。では、それを現実のものにするために、私たちが意識すべきことは何か。『奇跡のフォント』を読んで、考えてみてはいかがでしょうか。

<参考文献>
『奇跡のフォント:教科書が読めない子どもを知って―UDデジタル教科書体 開発物語』(高田裕美著、時事通信社)
https://bookpub.jiji.com/book/b622426.html

<参考サイト>
株式会社モリサワ:UDデジタル教科書体 ホームページ
https://www.morisawa.co.jp/topic/upg201802/
高田裕美さんのTwitter(現X)
https://twitter.com/Yumit_419

~最後までコラムを読んでくれた方へ~
「学ぶことが楽しい」方には 『テンミニッツTV』 がオススメです。
明日すぐには使えないかもしれないけど、10年後も役に立つ“大人の教養”を 5,300本以上。 『テンミニッツTV』 で人気の教養講義をご紹介します。
1

国家は助けてくれない…「三田会」誕生への大きな経験

国家は助けてくれない…「三田会」誕生への大きな経験

独立と在野を支える中間団体(6)慶應義塾大学「三田会」の起源

中間集団として象徴的な存在である慶應義塾大学「三田会」について考える今回。三田会は単に同窓会組織として存在しているわけではなく、「公」に頼れない場合に重要な役割を果たすものだった。その三田会の起源について解説す...
収録日:2024/06/08
追加日:2024/11/22
片山杜秀
慶應義塾大学法学部教授
2

日本の根源はダイナミックでエネルギッシュな縄文文化

日本の根源はダイナミックでエネルギッシュな縄文文化

日本文化を学び直す(1)忘れてはいけない縄文文化

大転換期の真っ只中にいるわれわれにとって、日本の特性を強みとして生かしていくために忘れてはいけないことが二つある。一つは日本が森林山岳海洋島国国家であるというその地理的特性。もう一つは、日本文化の根源としての縄...
収録日:2020/02/05
追加日:2020/09/16
田口佳史
東洋思想研究家
3

謎多き紫式部の半生…教養深い「女房」の役割とその実像

謎多き紫式部の半生…教養深い「女房」の役割とその実像

日本語と英語で味わう『源氏物語』(1)紫式部の人物像と女房文学

日本を代表する古典文学『源氏物語』と、その著者である紫式部は、NHKの大河ドラマ『光る君へ』の放映をきっかけに注目が集まっている。紫式部の名前は誰もが知っているが、実はその半生や人となりには謎が多い。いったいどのよ...
収録日:2024/02/18
追加日:2024/10/14
4

次の時代は絶対にアメリカだ…私費で渡米した原敬の真骨頂

次の時代は絶対にアメリカだ…私費で渡米した原敬の真骨頂

今求められるリーダー像とは(3)原敬と松下幸之助…成功の要点

猛獣型リーダーの典型として、ジェネラリスト原敬を忘れてはならない。ジャーナリスト、官僚、実業家、政治家として、いずれも目覚ましい実績を上げた彼の人生は「賊軍」出身というレッテルから始まった。世界を見る目を養い、...
収録日:2024/09/26
追加日:2024/11/20
神藏孝之
公益財団法人松下幸之助記念志財団 理事
5

国の借金は誰が払う?人口減少による社会保障負担増の問題

国の借金は誰が払う?人口減少による社会保障負担増の問題

教養としての「人口減少問題と社会保障」(4)増え続ける社会保障負担

人口減少が社会にどのような影響を与えるのか。それは政府支出、特に社会保障給付費の増加という形で現れる。ではどれくらい増えているのか。日本の一般会計の収支の推移、社会保障費の推移、一生のうちに人間一人がどれほど行...
収録日:2024/07/13
追加日:2024/11/19
森田朗
一般社団法人 次世代基盤政策研究所(NFI)所長・代表理事