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DATE/ 2024.03.01

『ケアの倫理』で学ぶケアの政治思想史

 現代社会では、ケアの重要性がこれまで以上に注目されてきている。高齢化社会の進展、家族構造の変化、災害や感染症への対策などを背景として、どのようにお互いを支え合い、より強固な社会的紐帯を作り出していけるかがより切実な社会課題として認識されるようになった。そのようななかで、医療や看護に限らず、職場、学校、地域社会など、さまざまな市民生活の場面でいま、ケアが求められている。

 ケアとは、一般に気遣いや配慮、世話を意味する言葉だ。身の回りの世話や、日々の労働など、人は日常生活のなかでさまざまなものをケアしている。その意味で、ケアは人間の存在様式の一側面ともいえる。他方、医療看護のように専門職化されたケアワークや、高齢者介護、障がい者介助、乳幼児の保育や子どもの育児といった場においてもケアは語られる。

 特に家事・育児・高齢者介護などは伝統的に女性の仕事とみなされ、経済的な価値が不当に低く評価されてきた。公的領域で行われる政治や仕事は本質的に男性のものとされ、女性は家庭という私的領域に押し込められ、抑圧されてきた。このようなジェンダー不平等を告発し、より平等な社会を求めて展開されたのがフェミニズムの思想運動だった。その運動を担ったフェミニストたちもまた、ケアの概念にもとづく倫理を紡ぎ上げてきた。

政治思想史家が描く「ケアの倫理」のストーリー

 今回紹介する『ケアの倫理 フェミニズムの政治思想』(岡野八代著、岩波新書)は、ケアをめぐるフェミニストたちの思索と葛藤の歴史を、一つの物語として叙述し、望ましい社会や政治を展望するための「ケアの政治思想史」の書である。ケアに関する書といっても、本書が持つ知的射程は驚くほど広い。

 著者の岡野八代氏は政治思想、フェミニズム思想を専門とする政治学者であり、現在は同志社大学で教鞭を取っている。『法の政治学』(青土社)、『フェミニズムの政治学』(みすず書房)などの専門書に加え、ドゥルシラ・コーネルやエヴァ・フェダー・キテイといったフェミニズムにおける重要な論者たちの著作の翻訳に携わり、日本におけるフェミニズム研究に貢献してきた研究者である。また、専門研究で得られた知見をもとにして、現代の政治・社会問題に対しても積極的に発言する知識人としても知られている。

 岡野氏が本書で試みるのは、政治思想・哲学の観点からケアがもつ意義や価値を根底から捉え直し、新しい世界を展望する可能性をケア概念に見いだすことである。その過程において、本書は「歴史」を重視する。なぜなら、ケアは多種多様な領域と接点を持つがゆえに、その概念の輪郭が時として曖昧に流されやすいからだ。個別具体的な実践と不可分なため、ケアを考えるときにはどのような文脈でその言葉が用いられているのかが極めて重要となる。その文脈を見失うと、ケアやケアの倫理が持つ要素が途端に見えなくなり、それどころか批判の対象にさえなってしまう。

 ケアやケアの倫理はどのように語られてきたのか。これまでのフェミニズムの歴史、女性の解放を目指した抵抗運動の歴史において、ケアはどのように位置づけられるのだろうか。ケアをめぐる思想の紆余曲折を丹念にたどり、今後の議論のための確固とした足場を提供するためには、思想の「歴史」という方法が不可欠なのだ。

フェミニズムは「ケア」をどのように論じてきたのか

 本書は序章と終章を含め、全7章から構成されている。第1章では、アメリカ合衆国における第二波フェミニズム運動を中心とした女性解放運動が取り上げられる。1960年代後半から70年代に展開されたウーマンリブ運動やラディカル・フェミニストたちの議論を見ていくなかで、女性の抑圧を表現する用語としての「家父長制」の再発見や、近代政治思想が前提とする公私二元論を批判するフェミニズムのラディカリズムなどが確認される。

 つづく第2章は、岡野氏がケア倫理の思想史を描く上で特に重視する、心理学者キャロル・ギリガンの著作の読解に当てられる。ギリガンは少女や女性へのインタビュー調査を通じて、女性の心理的発達には男性とは異なる思考様式や発達経路があると論じた研究者である。主著『もうひとつの声で──心理学の理論とケアの倫理』(風行社)でギリガンが訴えたかったことを、可能な限り忠実に再現することが試みられる。

 第3章では、ギリガンの『もうひとつの声で──心理学の理論とケアの倫理』が与えた影響について論じられる。ギリガンの議論は心理学だけでなく、さまざまな領域の研究者たちから多種多様な批判を呼び起こした。寄せられた批判を検討しながら、岡野氏はギリガンの議論がもつ意義を強調する。ギリガンが示したのは、従来の理論がひとえに男性の経験にもとづいて構築されてきたがゆえに、女性の経験と一致しないということだった。

 この点は、いわゆる正義・ケア論争を考える上でも重要となる。ギリガンが『もうひとつの声で──心理学の理論とケアの倫理』で示した「ケア」と「正義」の二分法の議論は、フェミニスト倫理学と合流し、「ケアの倫理」研究として展開するようになる。そして、当時のアメリカで隆盛を誇っていたロールズ流のリベラルな正義論は、そこで掲げられているカント的な普遍主義が実は男性中心主義にもとづく不平等を前提としたものであるとして、フェミニストたちから批判されるようになった。つまり、「正義」は男性的な概念であり、それに対する「ケア」は女性的な概念であるとみなされたのだ。

 そもそも、ケアの概念はギリガンの発達心理学研究などから展開されたものであり、正義論を中核とする当時の政治哲学の議論とは由来を異にしている。したがって、両者の関係が問題となったが、その規定は論者によってさまざまだった。「両者は対立する」とする者や、「両立して相互補完的な関係だ」とする者、他にも統合や包摂といった関係性に関する議論がなされた。

 このような教科書的な記述では、この「論争」があたかも「ケアか正義か」の二者択一であるかのように思われてしまうが、実際は異なる。岡野氏はネル・ノディングズ、マリリン・フリードマン、サラ・ラディクらの議論をたどることで、フェミニストにとっての正義・ケア論争とは、実際は「リベラルな正義論とは異なるもう一つの正義を求める議論」であったことを解き明かす。既存の正義論がよって立つ17世紀以来の公私二元論を根底から覆す潜在力をもつものとして、ケアの倫理が見いだされたのである。

 第4章では、ロールズ流の正義論をはじめとした、今日主流とされる正義の構想に対して、ケアの倫理から批判的な再考が加えられる。

 そして第5章では、フェミニストたちが知的格闘の末に獲得したケアの倫理という道徳理論が、いかなる人間観、社会観、世界観をオルタナティブとして提起しているのかが考察される。

 リベラルな正義論が依拠するカント的な普遍主義は、理想の社会や、理想状態を前提として、自由、平等、正義といった規範理念を構築する。これに対し、ケアの倫理は「現在の社会に位置づけられたわたしたちの生の現実から社会を構想しようと呼びかける」。興味深いのは、文脈に規定され、脆弱で、傷つきやすい人間を前提としたケアの倫理が、民主主義、平和、環境正義とどのように結びつくのかといった可能性についても論じられていることだ。ジョアン・トロントの「ケアする民主主義」といった最新の理論についても紹介されており、読者にとって参考になる。

ケア倫理からはじめる望ましい社会の構想

 終章では、これまでに見てきたケアの倫理の歴史的・社会的意義を踏まえて、現代の日本社会が批判的に考察される。岡野氏は、2019年末から世界中に広がった新型コロナウイルス感染症による「コロナ禍」に対する日本政府の対応を「一人ひとりの市民の生活に対して無関心で、不注意で、ぞんざいなケアを顧みない政治」であったと厳しく批判している。だが、そのような政治を黙認し、あまつさえ維持強化してきたのは、他ならぬ私たち日本国民であった。

 いま求められているのは、〈わたし〉から〈わたしたち〉の連帯を作り出し、新しい社会を構想することである。その原動力にケアの概念を据えることを岡野氏は提案する。「ケアを必要としているひとのニーズが気づかれ、何からの形で配慮がなされ、誰かが責任をとり、ケア実践されていく」という網の目のような実践の広がりを通じて、〈わたしたち〉というコミュニティが形成されていく。このような「ケアを中心とする政治の萌芽」への期待とともに本書は締めくくられる。

 本書は新書という媒体であっても内容は本格的だ。ケアという概念から新しい社会を構想するという壮大な知的冒険をぜひ体験してほしい。

<参考文献>
『ケアの倫理 フェミニズムの政治思想』(岡野八代著、岩波新書)
https://www.iwanami.co.jp/book/b638601.html

<参考サイト>
岡野八代氏のツイッター(現X)
https://twitter.com/yot07814

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