●格差拡大は日本にとって非常に危険なこと
質問 民主党・野田佳彦政権が行おうとした税と社会保障の一体改革は、方向性は良かったと言えるのでしょうか。
中西 そうですね。ただし2012年のあの時点から、もう5年以上がたちます。あの時点でもし着手できていればと思いますが、今のアベノミクスは結局これを避けるために出てきて、国民もそれを歓迎した面があります。しかしこの間、答えは出せないでいます。失われた5年になってしまったのです。
財政再建にとっても明らかにそうです。失われたどころか、もっと悪くなっています。しかし2012年の時点で、あの再建策がスムーズに実行できたか、実行できていたとすればどんなことが起こっていたのか、これはなんとも言えません。その間の世界経済とも関わってくる問題ですし、自信を持って答えようがありません。
日本人にとって格差が拡大するということは、国家として非常に危険なことです。それは海外に出ると如実に感じます。例えばロシア人は、格差に耐えられるでしょう。他方、日本人は単一民族といいますか、やはりみんな平等が何よりの倫理、モラルなのです。それを外してしまえば、何の善悪の基準もないぐらいに重要なのです。
●非正規雇用は身分格差だ
質問 アベノミクスで失業率が改善されていると言われていますが、どのように見ていらっしゃいますか。
本当の問題は、非正規雇用だと思います。これは日本人の心をすさませている、もう一つの原因でしょう。これこそ格差、それも身分格差です。グローバリゼーションの環境の下での、あるべき日本型雇用を、もっと考慮してほしかったところです。しかし、非正規雇用は早い段階から導入されていました。雇用が増えても所得が増えないし、安定した雇用でもないとすれば、「雇用が増えた」という表現は、従来の意味とは異なってくるでしょう。
欧米やインド、東南アジアの人々は、身分格差的なものをあまり気にしません。非正規でも、正規よりたくさん給料を渡している会社がありますが、それでもうOKなのです。ところが日本人には、そのように割り切れない何かがあるのです。
常々不思議に思っていたことがあります。平等主義が強固な遺伝子のようになっている日本なのに、江戸時代は階層社会でした。当時の人はあの身分制をどのように感じていたのでしょうか。資料を見たり、井原西鶴を読んだりしても、よく分かりませんでした。
しかし、最近になってたどり着いた、仮説があります。江戸時代当時、身分は役割だったのです。役割だと思うと、身分制であっても受け入れることができます。江戸時代の人も根本的な人間の平等感は、強く持っていました。決して奴隷制のような、人間性を無視した身分意識ではありません。身分は役割にすぎません。お侍はお侍の役割で立てながら、本心では面従腹背なのです。それは平等の哲学、平等の価値観があるからでしょう。当時は血筋という合理化手段もありました。ところが現代では、理由も分からないまま、正規雇用と非正規雇用が簡単にパッと分かれて、人間集団として別だという意識を持たされてしまいます。
●平等神話は日本の一番のセーフティーネットだ
あるいは、昔の日本の軍隊がどうして受け入れられたのか。軍隊では、入軍する前のことを「しゃば」と言いました。しゃばで大学の助教授をやっていようが、それとは関係なくみんなガンガン殴られます。これはすごく非合理的でひどいことのように見えますが、一方でそれを見ている小学校しか出ていない農民兵にとっては、軍隊がすごくアットホームに感じられたのでしょう。この集団のために命を懸けようという気持ちになります。これが日本の近代化の原動力でした。確かに、全部を平等に鋳型にはめてしまった、日本陸軍の教育は、非人間的だといわれますが、根本のところでは日本人の国民性に共鳴する何かがあったと考えざるを得ません。
日本陸軍は、上層部がおかしくなってしまったから、変なもの、化け物になったわけです。明治の児玉源太郎や乃木希典、あるいは山縣有朋でさえ、はるかに理性的で、しっかりとかじ取りができました。陸軍に入って、インテリや大学出が、中学もろくに出ていない下士官に殴られている姿を見るのが、農民兵にとっては快感だったそうです。下士官にとってはでこぼこの出たところを殴って、みんなひと固まりにしようとしたのでした。これは、効率性という点で合理的だったといえます。日本人の不平等に対する怨念がそれだけ強いということを前提として、一体性を保ったのです。
ニワトリと卵の関係ですが、他方で一体性がシステムとして保ちにくくなったときには、怨念がたまってしまいます。この関係を間違うとおかしなことになるでしょう。平等の哲学、平等神話は、この国が生きていく上...