●藤井聡太棋士は「日本語と将棋のバイリンガル」?
今回は、まず言語、言葉です。酒井邦嘉氏はチョムスキーの系譜にある言語学者ですが、同時に脳のことなどにも詳しい方で、面白いことを言われました。将棋界の記録を塗り替えている藤井聡太棋士について、「日本語と将棋のバイリンガル」だというのです。
皆さんの中にも将棋を指される方がいると思いますが、私もヘボ将棋をやります。私のヘボ将棋は本当にダメなのですが、そのダメさがこれでやっと分かった気がします。つまり、私は外国語のように将棋を指していて、文法間違いをしたりするのです。ところがバイリンガルの藤井棋士は、文法間違いをしないわけです。
例えば、日本語話者の人が日本語をしゃべっていても、たまには間違えることがあります。でも、そのときに「あ、しまった。間違ったな」とわれわれは気付きます。ただ、「てにをは」を間違えるようなことは、あまりありません。でも、外国語を習い始めの頃はしょっちゅうそういうところを間違えます。私のヘボ将棋は、だいたいそのレベルなのです。いつまでたっても上達しない外国語のような感じです。でも、藤井棋士はバイリンガルだから、将棋を指すときに文法的に正しい手を打てて、めったに間違えないわけです。
●将棋の天才の秘密は、言語的達成度にある?
では、どうして藤井棋士はそんなことができたのか。そして、他の人はできないのか。もちろん単純に、「藤井さんは天才だから」というのも悪くない答えです。きっと天才なのだろうなと思いますが、お母さんに聞いてみると、「いえいえ、普通の子でした」と言われます。
ということは、「天才だ」と片付けるのではなく、何かここに秘密があると考えてもいいのかもしれません。つまり、バイリンガルであるところに、面白いヒントがあるのではないか、ということです。
本シリーズの中で私は、「空海をマルチリンガルな人だ」と言いました。しかも、そのマルチリンガルは、言語をスイッチしていくようなマルチリンガルではなくて、compoundにしていくマルチリンガルだと申し上げました。藤井棋士の能力は、そういう在り方に似ているのかなと思うわけです。
バイリンガルといってもいろいろな方がいて、うまくやらないとどちらの言語もあまりできない状態で止まってしまうことがあります。また、人によると、どちらの言語も非常に高いレベルに到達する人もいます。おそらく藤井棋士の「日本語と将棋」は、どちらも極めて高いレベルに到達したバイリンガルだろうという気がします。
ひょっとして適切なトレーニングの仕方か何かがあれば、天才ではなくてもこういうことができるのかという気も少しします。でも、多分それは同時に、言語のある種の秘密をわれわれがつかまないと理解できないのでしょう。そして、おそらくそれは、言語に対する見方を大きく変えないと、たどり着かないようなことではないかと思います。
●譬え話は半分、残りはそれを聞いた人が作る
言語の語り方で、もう一つ取り上げたいのは宮本久雄氏の言葉です。キリスト教がご専門の方ですが、面白いことを言われました。
「喩えというのは、その際、人びとに語られ、一人一人に対して自由に、自分の開かれた物語を作るように呼びかけるのです」
もっと簡単にいうと、譬え話は半分しかできていない物語で、後の半分はそれを聞いた人が作る、ということです。
シリーズ講義の第2回で能動的な読書の話をしましたが、これと同じだと思います。譬え話と同じように、やはりそれを読んで呼び掛けを聞いた人が後の半分を作る。こういったことが、多分読書にも絶対に必要なのだと思います。
もっと言ってしまうと、私たちの言語は、そういったことを常に求め続けているのではないでしょうか。言語は、単に意味を運ぶだけの道具ではありません。ある種の呼びかけをしていて、それに自分の言葉で応えることが言語の構造にあるのかという気がします。そうすると、藤井棋士のような在り方も、少しは分かるのではないかと思います。
●「手続きの倫理」と「本体に関わる倫理」の区別
最後に倫理の語り方です。倫理というのもなかなか難しいもので、「倫理という実体」をつくろうという人がよくいますが、あまりうまくいきません。そうではない立て方をする人との間で意思疎通ができなくなる場合が、結構あります。
これについて、物性科学とともに研究倫理を長くやってこられた家泰弘氏が、「手続きの倫理と、手続きではなく本体に関わる倫理は、区別されなければならない」と言われています。
確かにその通りで、手続きに関わる倫理、方法に関わる倫理があります。それと、何...
(東大EMP編集、中島隆博編集、東京大学出版会)