●ゴッホの絵も「間違った絵」だと思われた
執行 これは戸嶋のカリンの絵です。
―― これもすごいですね。
執行 生命が溌剌とした、カリンの色気がすごく出ています。戸嶋の絵は宇宙の中で、生命がどう存在しているか、いわば生命の本質が見てわかるのです。
これはマイテという人の肖像画です。マイテと戸嶋という人間が、先ほど言った存在の根源的共同化に成功した絵です。だからこの顔はマイテの肖像だけれど、マイテではない。戸嶋の顔とマイテの顔が融合した顔なのです。僕の肖像画も、僕の顔と戸嶋の顔が融合しています。僕の顔だけを描いても、それは芸術ではない。
―― 存在の共同化は、そのように見るんですね。
執行 そうです。「根源的共同化」とハイデッガーが定義しています。その哲学的な『存在と時間』の概念が、戸嶋のこの絵の中で実現しています。だから戸嶋は自分の絵を描くたびにマイテと自分の命が合同したり、僕の命と自分の命が合同したり、いろんな人と合同している。
これはホアキンという人の家の庭ですが、こうした自然の絵になると、今度は時間化作用という、自然が繰り広げた時間と自分の命が一緒になっています。
―― 先生の肖像画はありますか?
執行 僕の肖像画はこれです。
―― 2003年だから16年前ですね。
執行「巖の草舟」という題を戸嶋が付けて。
―― これ、すごく面白い。
執行 かっこいいでしょ。これが一番、僕の顔としてはわかりやすい肖像です。
―― 確かに融合していますね。根源的共同化なんですね。
執行 この存在の根源的共同化ができる人が、真の芸術家です。根源的共同化をすると、程度の低い絵画的な意味では評価が下がります。美しくないからです。例えば写真みたいに誰かのを描くなら、きれいに描いたほうが評価は高くなります。根源的共同化では、描く人間と描かれる人間の命が融合しますから、肖像画としては何か似てないような感じがする。
―― 写真のような、アンドリュー・ワイエスみたいな絵がいいと。
執行 その意味で根源的共同化ができる芸術家とは、自分の命を投げ出していないとできません。簡単そうだけど、できないのです。
―― 自分の命を投げ出して初めて、根源的共同化になるわけですね。
執行 だから戸嶋の肖像画は、お金にならない。戸嶋の肖像画にお金を払う人は、ほとんどいない。
―― 理解してくれる人が、ほとんどいないのですね。
執行 偉大な画家で、死んでしばらくしてから有名になる場合もあります。でも実際の生活で大事なのは、その日です。その日にお金をもらえる絵は、相手が喜んでくれる絵じゃないとダメです。
―― ある種、おもねらないと。
執行 それには写生じゃなきゃダメです。
―― 写生で、「うまい」とか「下手」とか言っているほうがいいのですね。
執行 根源的共同化にすると、すべてダメになります。
―― 要するに、誰かそれに感動する人を見つけてこないと。
執行 根源的共同化の絵にみんなが感動するようになるのは、戸嶋が死んで、僕も死んでからです。モデルもいなくなり本人もいなくなると、今度は絵としての価値だけになります。そうなるとゴッホではありませんが、評価が上がる場合もあり得ます。
―― ゴッホは多分、そういう人だったわけですね。気が狂うほど投げ出して、身を捧げて描いたけれど、生きている間は全く理解されなかった。
執行 ゴッホは、今はもう有名だから誰でも価値がわかりますが、生きている頃には「下手くそな絵」という評価でした。
―― 正しくない絵だったわけですね、当時からすると。
執行 要するに、生きている当時は「間違った絵」なのです。ゴッホも根源的共同化を行っていて、ゴッホという人間と景色が自分の中で一体になっているのです。だから景色として間違っているし、ゴッホの神経としても間違っている。だから間違っている絵が、偉大な絵なのです。
―― でも最後は、精神を病んでしまった。
執行 あれだけ認められないのですから。
―― それでも最期まで、そのやり方を貫いた。
執行 だからゴッホは芸術に魅せられた。芸術が、ゴッホの命を吸い取ったわけです。それだけの力が芸術にあるのです。
―― エクス・アン・プロヴァンスで療養してもダメだった。いかにいいところにいても。
執行 とにかく命を投げ出させるものが重大なのです。
―― でもこれを肖像像と呼ぶのか、という話になりますからね。自分の肖像画を描いてくれといって描いてもらって、どれぐらいの人が理解できるかですよね。
執行 これは、最初に描いた僕の肖像画です。
―― すごいですね。
執行 これも代表作で、『アルバイシンの男』です。
―― これもすごいですね。ミゲールの像だけど、やはり一緒になっているのです...