●「何か」のために自己を捧げる
―― 逆の意味で言えば、戸嶋先生も執行先生と出会うことによって、自分の生きてきた人生に意味を付けられたのですね。哲学と歴史の観点から、自分が描いていた絵がどの辺に位置するか。
執行 戸嶋自体は知らずに描いていますが。
―― ハイデッカーの『存在と時間』と結び付けてくれた。それはすごいことです。
執行 「時間化」だけではありませんからね。例えば戸嶋が街や山など自然を描く場合は「時間化」作用ですが、肖像画など人間を描く場合は、ハイデッガーの理論で言う「存在の根源的共同化」が出てきます。「根源的共同化」とは、生命の本当の交流です。生命が交流しなければ描けない描き方をしてるのが戸嶋なのです。
だから戸嶋は人物画に関しては、本当の人物とは全く違うものになります。描かれた人間の生命がつくられた宇宙的な元存在と、絵を描く戸嶋の自分自身の生命がつくられた元存在、両者の元存在が、この世で、この地上で交差することになります。これがハイデッカーの言う、存在の「根源的共同化」なのです。
―― 「根源的共同化」ですか。
執行 それが戸嶋の絵の人物画には全部あるのです。そういうものを描ける画家が、なぜ描けるかというと理由は簡単で、芸術に命を投げ出して、自分の命全部を芸術に叩き付けてきたからです。命を投げ出さないと、宇宙エネルギーとは貫通しません。
―― そういう意味で、かつての宗教家も、そうですよね。
執行 宗教はそれをさせるものですから。キリスト教の殉教ではありませんが、キリスト教では、何十万人、何百万人という人が、ローマ帝国の頃から言えば磔になっています。それでも信じた。人間の魂というのは、信ずるもののために死ぬのが人間で、その信ずるものが何かは関係ない。僕に言わせれば、悪徳でも何でもいいのです。
たとえば僕は、西部劇の映画が好きでよく見ますが、有名な『明日に向って撃て!』は銀行強盗の話です。それでも見た人は、みんな感動すると思います。
―― 確かに『明日に向って撃て!』は感激しました。
執行 銀行強盗なのに、感動する。なぜかというと、命懸けだからです。要するに人間は命懸けのものに感動するし、われわれの命は、何かに捧げるためにあるのです。
そういう部分がもともとあって、だから「愛国心」とは国に捧げるということです。国に捧げるのも、もちろんすごく立派なことです。これは国家でもいいし、愛する人でもいい、だから女房だっていいのです。僕はみんなに言いますが、女房一人だって、本当に死ぬほど愛したら、それは大変な人生なのです。本当なら。
―― 捧げるもののために、命を投げ出したら。
執行 一般的には「自分が幸福になりたいから、愛していることにしておく」といった程度です。僕が見ていると、みんなそうです。その程度が多いですが、それではダメです。本当に捧げなければダメなのです。捧げたなら、相手が子どもだろうが女房だろうが、誰でもいい。友情もそうで、全部同じです。国にしても、本当に国家に捧げて死んだのなら、どんな死に方だろうが立派です。
―― 完全燃焼しているのですね。そしてつながるのですね、宇宙と。
執行 芸術も同じです。本当は宗教しか、そういうことを人間にさせることができませんでした。その意味で宗教家は、偉大な人なのです。釈迦にしてもキリストにしても、みんな自分を信じた人間に、何かのために命を投げ出させる力を持っていました。そして投げ出した人たちに、本当に生まれがいがある、素晴らしい命を与えてあげるのです。
―― 自分の存在が、ものすごく明らかになる。
執行 それが大宗教家です。本当の宗教家とは、釈迦もキリストもマホメットも、全員「俺のためにお前が死ね」と言う人です。カルヴァンやノックス、ルターといった有名な宗教家もそうです。彼らも僕は好きで全員調べていますが、周りの人をみんな殺しています。
―― 「俺のためにお前が死ね」と。
執行 「俺が真実だ」「俺のために死ねば天国に行ける」、こういうことを言い切れる人が宗教家です。本当にその人のために死んだ人たちが歴史的にたくさんいて、彼らにとってそれは本当に素晴らしい人生なのです。我々は1回しかこの世に生まれませんが、だいたいの人はくすぶって死にます。それを本当に何かを愛して、命を投げ出すというのは大変なことで、それを与えてくれるものが素晴らしいものなのです。
●人生そのものが芸術
だから明治の国家も素晴らしいのです。国民が喜んで死ねる国でした。ああいう国にならなければダメなのです。今みたいに、国家の言うことを聞いていれば金持ちになれるとか、年金や保障の話ばかりするのは最低です。これは、単なる欲です。本当の国家とは、国民に対して「国家のためにお前た...