●輸出型経営からの転換がうまくできなかったゴーン改革以前の日産
―― 西川さんは日産自動車とルノーで長く勤められ、カルロス・ゴーン氏が入ってきて極めて短期間に日産を大変革されたときには、一緒に携わられました。日本の経営者では珍しく、グローバルな経営の仕方を、ボードメンバーとしても社長としても見ておられます。
そのような西川さんから見て、カルロス・ゴーン氏が入ってくる前の日産、入ってきた後の躍進していく日産はどうだったのかというあたりを少しお願いします。経営者人材とは何か、どうして日本ではこれほど経営者人材が枯渇してしまったのかということを踏まえて、お話をいただければと思います。よろしくお願いいたします。
西川 ありがとうございます。ご紹介いただきましたが、それほど大層な人材ではありません。ただ、今、神藏さんからご紹介いただいた通り、ある意味、非常に大きな変化や変革を経験してきました 。また、そのなかのプレーヤーの一人としてやってきて、なかなか経験できないことをいろいろくぐり抜けてきたのかという感じはします。
私が経験したこと、あるいはそのなかで感じたことが、これからのグローバル人材の皆さんが育っていく、あるいは勉強されるなかで、何かお役に立つことがあればと思います 。そういうことで聞いていただければと思います。
大きな流れでいうと、1980~1990年代にはドル円ベースにおける円の競争力があったため、日産だけでなく日本の企業が軒並み輸出型の企業として成長しました。ところが、その後はだんだん円とドルのレートで円が高くなっていく。かつ、自動車業界でいうと貿易摩擦等々のものもある。長い目で維持可能な事業をやっていくためには、海外投資をして、事業の海外展開が必要だろうという方向は、みなさんが訴えていたわけです。
実際に日産自動車のなかでいうと、80年代に大きな投資をして、90年代からそれをうまく使って事業運営しなければいけなかったわけです。
しかし、輸出型の企業経営フォーメーションに慣れていて、そのなかで育ってきた人間にとっては、いろいろな地域で事業を展開し、それをグローバルに束ねていくという仕事はあまり得意でなかった、あるいは慣れていなかった。そこで、私のいた日産は1990年代になかなか収益を出せず、むしろ赤字に陥ってしまった状態にあったわけです。
したがって方向としては正しかった、すなわち進むべき方向に向かっていたと思うのですが、それを運営するだけのマネジメントの実力が足りなかったということだと思うのです。
そこからは、1999年にゴーン氏が来て、2000年からゴーン体制が始まります。彼は、こういう方向に持っていくという「あるべき姿」を簡単に見せて、そこへ進んでいくために、「まず、ここから行くぞ」というステップを作る。簡単にいうと、シンプルで分かりやすいかたちで方向を見せ 、シンプルで分かりやすいかたちで第一ステップ・第二ステップの具体的な目標を見せる。それで、「これでやろう」ということで、会社を引っ張りだしたわけです。
●進むべき方向は見えていたが、どう事業運営するか腰が定まらなかった
―― 西川さんにお聞きしたいのは、ゴーン氏が来るまでできなかったこと、ゴーン氏が来た後でできるようになった部分です。なぜ、それまでの二十数年にわたる日産の低迷が起きたのかということです。このあたり、西川さんの見立てはいかがでしょうか。
西川 これは非常に難しいですね。
―― とくに、その中にずっといらっしゃいましたからね。
西川 ただ、中にいた私自身が強く感じていたのは、自動車産業が進むべき道は、だいたい見えていたということです。輸出の競争力をベースに成長をした。これは皆さんそうですが、今度はそれをテコにして、日本で作って海外へ輸出するのではなく、海外で作って海外で売るための構造に変換をしていかなければいけない。そのための投資もする、という時代が1980年代後半だったわけです。日産自動車は、かなり先行して投資していました。
―― イギリスの工場など、いっぱい投資されましたね。
西川 方向としては正しかったと思うのですけれども、投資をした結果、それをどうやって運営し、そこから収益を出すようにするか。結果的に見て、そこに問題があったのです 。したがって、どんどん海外投資をして海外生産を増やせば増やすほど、収益が悪化していったという非常に単純な話なのです。
問題は、海外で生産をして、海外で売る。海外のお客様に使っていただけるようにする。こういう仕事をしながら、それをグローバルに束ね、投資とリターンをうまくコントロールするのは、どうやったらいいのか。経営としてはある意味ベーシックな部分ですが、そこが、輸出して相当の利ざやを稼ぎ、作っ...