●将軍・源実朝の御台所選定
坂井 政所の筆頭別当、執権となった北条時政は、「全て源実朝の仰せである」という形を取りながら、かなり自分のやりたい放題の政策を遂行していきます。例えば、武蔵国の御家人たちに忠誠を誓わせるといった、相当行き過ぎではないかと思われるような権力の行使の仕方をするわけです。
もう一つ、時政はもともと京都とのつながりが割と強かったのです。例えば、後妻に牧の方がいますが、彼女は京都生まれの京都育ちで、京都の人脈を持っている人です。そういうこともあり、京都に目が向いているところがあります。
実朝がまだ12歳から13歳になる頃でしたが、時政・牧の方夫妻はそろそろ御台所を決めておくべきだと考えました。そこで、後鳥羽上皇のいとこに当たる「坊門信清の娘」という女性を鎌倉に迎えることになります。
ここには、「実朝」という実名を与えた後鳥羽上皇がかなり深く関わっていると思われます。後鳥羽上皇は、自分の院の近親である信清の娘であればよかろうということで、自らその路線を推したのではないかと私は考えています。
このような経緯で、信清の娘が実朝13歳の年末に、ようやく鎌倉にやってくることになります。信清の娘を迎え取りに行った使節は何十人もいますが、その中の1人として時政と牧の方の愛息・北条政範という16歳の少年が入っていました。
ここは事情がよく分からないのですが、この政範が京都に入って数日でなぜか亡くなってしまいます。この時、畠山重忠の息子の畠山重保という人物も使節の1人でした。京都では、この重保と牧の方の娘婿である平賀朝雅の間で激しい口論が起こりました。その両方の情報が、鎌倉に(同時に)もたらされるのです。
●北条時政・牧の方夫妻の受けたショックと権力欲
坂井 自分の愛する息子が死んでしまったため、時政・牧の方夫妻は相当ショックを受けます。そうした中、畠山の息子が牧の方の娘婿に対してどうも言いがかりをつけたようだと彼らは解釈し、「けしからん」ということになります。
そういう状況があり、武蔵国の畠山氏と時政の間がぎくしゃくするということが、元久2(1205)年、実朝が14歳になった年の年初から起こってきます。
―― 当時の武蔵国では、畠山が筆頭の有力者だったわけですか。
坂井 そうですね。武蔵国は相模国の隣であり、非常に重要な土地でした。そこには一時期、比企氏がいましたが、比企氏が滅んだあとは、平安時代以来勢力を持っていた畠山氏が第一の武士団になってきます。時政からすれば当然、武蔵国にも執権として権力を及ぼしたいと考えます。そうなってくると、かつては比企が邪魔だったけれども、今度は畠山が邪魔になってくる。そういう思惑も、もともと時政の中にはあったのです。
―― ただ、婚姻関係自体は結んでいたわけですよね。
坂井 そうです。時政の娘は重忠の妻になっていまして、「比企の乱」の時にも重忠が時政の味方をして、比企氏を滅ぼす武力の一つになっていました。ですから本来、畠山からすれば、比企氏を滅ぼす時にも協力をした自分たちがこんな圧力を加えられるのはおかしいではないか、と考えるのが当然だと思います。
ところが、時政・牧の方の側にはやはり権力欲というのか、武蔵国も掌握したいという気持ちが非常に強く出てしまいます。先ほど京都へ行っていた娘婿の朝雅という名を出しましたが、彼はその時、武蔵守になっていました。そういう関係もあって、武蔵国になんとか自分の権力を及ぼしたいというのが、時政・牧の方夫妻の強い思いであったと思われます。
●「名誉を傷つけられる」ことによって起こる武力の行使
―― 当時の人たちが生き死にをかけて戦うきっかけというのは、現代人から見ると非常に些細なことであり、「そんな口論がきっかけで乱に発展するのですか」と聞きたくなります。背景にいろいろな力があるにしても、何か少し(われわれの)理解を超えるところがあるような気がするのですが、そのあたりはどうなのでしょうか。
坂井 それは別に武士だけではなく、庶民の間の喧嘩であっても、相手を半死半生に追い込んでしまったり、実際に殺人に発展したりすることは、当時頻繁にあったようです。まして武士の場合、武力を行使することが当然のアイデンティティですし、「武名」という名誉を重んじます。自分が貶められたり、名誉を傷つけられたりするようなことがあると、それに対して自分のアイデンティティである武力を使うということが、割と簡単に起きてしまいます。
彼らにとっては名誉を傷つけられること自体が、損得に直結するのです。自分たちの一族を守ったり、一族の所領を守ったりするという、実際の経済的な問題にも当然関わってくるからです。ここで引いてしまったら、自分たちの武士団や先祖代々の土地...