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政所とは?侍所とは?…鎌倉幕府の組織と北条義時の執権就任

源氏将軍断絶と承久の乱(4)源実朝の将軍親裁と政所、侍所

坂井孝一
創価大学文学部教授
情報・テキスト
18歳になった将軍・源実朝は従三位に上り将軍家政所を設置する。当初、実権は北条政子・北条義時が握るが、成長して「将軍親裁」を始めた実朝と北条氏との力関係が微妙に変わっていく。義時は「二代執権」となり実朝を支えていくのだが、有力な御家人たちを失脚へと追い込んでいった義時にとって、幕府の中で邪魔になるのは侍所の別当を残すのみとなる。(全12話中第4話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:13:45
収録日:2022/07/13
追加日:2022/10/02
タグ:
≪全文≫

●従三位に叙された源実朝、「将軍家政所」を設置


―― (前回のような経緯で)北条時政が失脚すると、いよいよ源実朝の政治が本格化していきます。ちょうどその時期に、実朝が将軍家政所を設置するという話になってきます。源頼朝の時も政所はあって、ここでもまた設置ということになるのですが、そもそも政所はどういうもので、どういう仕事をするところなのでしょうか。

坂井 「政所」は別に幕府特有の機関ではなく、平安時代から上流貴族の家政機関として設置することが許されていた組織です。「政(まつりごと)の所」と書いてありますが、(上流貴族は)命令書を出さなければいけません。あるいは経済的なこと、荘園の管理なども必要です。そういったもろもろの事柄を行うものとして、例えば摂関家政所や、寺院などでも東大寺の政所といったものが作られていたのです。

 幕府も一つの政治機構であり、命令書も出すので、そういった政所のような機関がもともと必要でした。最初は「公文所」と呼ばれていました。要するに「公の文書を出す所」です。それが平安時代には、「位階が三位以上の上流貴族」の場合に「政所」という呼ばれ方で設置することが許されていました。

 頼朝も、文治元(1185)年に従二位という三位以上の官位に就いて、政所設置の許可が下りました。すでに公文所はあったのですが、それが政所という形に変わっていきます。そこで、たくさんの「下文(くだしぶみ)」と呼ばれる命令書が出されます。

 例えば、頼朝自身が将軍になった場合には「将軍家政所」と呼ぶ。要するに将軍家の家政機関としての政所です。そこで、将軍の命令を将軍家政所下文という形で発給していく。源頼家の場合は、将軍になってから約1年で亡くなってしまいますので、将軍家政所下文は残っていません。源実朝の場合は、最初から将軍でしたから、一応政所のようなものはありました。ただ、位階が従三位までいっていないので、「政所」という名前ではない形で文書を発給していました。

 時政が失脚した時、実朝はまだ14歳でした。自分自身で花押(サイン)を書いて命令書を出すということも、ちらほらとは行っていましたが、実際に将軍権力を行使しているのは北条政子や北条義時でした。その後、徐々に成長して18歳になった承元3(1209)年に、朝廷から従三位の位階に叙されます。これによって、正式に将軍家政所を開くことが許されたという形になります。


●源実朝の「将軍親裁」と北条義時の「二代執権」


坂井 その前後のことですが、実朝は12歳から将軍をやっているわけなので相当経験も積んできたということで、18歳になったあたりから「将軍親裁」を始めます。将軍が自ら親しく裁許を下すという政治です。

 では、(北条)義時たちはどうだったのか。政子は特別公式の地位にはなく、あくまで非公式な将軍の実母であるということでした。また、頼朝の後家であるというのも、公式な地位ではありません。義時はどうだったのかというと、どうも将軍家政所の別当にはなっていなかったようなのです。

―― 父がなっていた地位ですね。

坂井 そうです。(北条)時政の頃はまだ将軍家政所という正式な形にはなっていませんが、政所の筆頭の別当、つまり執権になっていました。しかし、時政が失脚したあと、(義時は)どうも政所の別当にはなっていないようです。

 これはたくさん発給されている文書を見ると明らかで、時政のように義時が政所の別当として署判をしている文書は残っていません。そして、将軍家政所が正式に設置された承元3(1209)年以降は、実際に将軍家政所下文という命令書が出されます。そこにも最初のうちは義時の署判がないのです。

 ところが、そのあたりで義時と実朝との間に、駆け引きというとニュアンスが違いますが、何かやりとりがあったようです。つまり、それは、相当年長者で、経験を積んでおり、さまざまな御家人たちを失脚に追い込んで自分の地位を固めてきた義時が、実朝に対して「将軍であり頼朝の息子とはいえ、まだ18歳のあなたには無理でしょう」というような態度で臨んでいたと思われる記事が『吾妻鏡』に出てくるからです。義時はちょっと調子に乗ってしまったのでしょうね。承元3年の11月ぐらいになると、自分の昔ながらの郎従を御家人に準ずるという命令を実朝から出してくださいというような、無謀で思い上がったといってもいい要求を実朝にします。それに対して、すでに将軍親裁を始めている18歳の実朝は、断固として拒絶し、それは永久にないと申し渡す。つまり、そういう命令を下すのです。

 これによって、義時は一歩引かざるを得なくなります。要するに、将軍の実朝と実権を握っている義時との力関係が、そこでそれまでの形から微妙に変わったと思われる出来事が起こるわけです。

吾妻鏡...
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