●戦前の経済政策と吉田茂の日米協調路線が融合した戦後日本
―― 岸信介が復活してきたことは、やはり時代の要請なのですね。
井上 そういう方向だと思います。政治の世界においては、例えば、吉田派と反吉田派という対立がよくいわれると思います。あるいは党人派と官僚派であるとか、戦前派の人と戦後派など、いろいろな括り方をされると思うのですけれども、やはり1つの定義だけで括ることはできないわけです。だから岸とその周りの人たちが戦後世界で台頭してくる上では、やはり経済政策、産業政策に非常に精通しています。おそらくそういったものが、むしろ革新勢力のほうが強いと思われていたところで、戦争中にそういう経験を持った政治家が保守の側にもいるのだということを示せたところは大きかったのだと思います。
もっというと、戦後世界では、アメリカの経済システムの中に組み込まれていきながら、非常に日本経済は発展していくわけです。吉田茂という人は、いわゆる英米との協調を非常に重視していました。これはどちらかといえば、アメリカとの開戦詔書に署名して、アジア主義を信奉している岸とは違う考え方だと思うのです。しかし、戦後世界になった時に面白いのは、吉田の掲げる日米協調の精神のようなものと、経済政策はいわゆる戦前期、1930年代からのものを連続させていくという思想が融合してくることです。
だから、政治の世界ではいろいろな路線対立はあるのですけれども、結局、戦後日本では、戦前期にあったいろいろなものが集まって、また選び取っていったのだろうと思います。
●清濁合わせ呑む人間性ゆえの「妖怪性」
―― 先生がおっしゃった、いわゆる岸の「妖怪性」ですが、これは実像がみんなに明らかになっていないからではないかというお話がありました。確かに時代の移り変わりの中で、例えば東大の時には北一輝に惹かれるようなものがあったり、おそらくそこからの延長線上で小林一三と商工省が対立した時にはアカ呼ばわりもされていたりということですから、当然オールドタイプの自由主義者から見れば、やはり妖怪性というか、こいつは何を考えているか分からないというのもあったのでしょう。あるいは満洲時代の話でも、もちろん計画経済の話と同時に、巷間言われるところですと、アヘンの裏金が云々などという話が出てきたりします。
このあたりのことは同時代の方から見ても、いったい何をやっているのだろう、何を考えているのだろうかというようなところが、おそらく岸にはあったのではないかと思うのですが、先生は資料をいろいろとご覧になっていて、裸にしたときの岸というのはどういう人間だと思われますか。
井上 満洲のアヘンの話とか、いろいろなエピソード的なものはあります。ただああいう話は、もちろん根拠はあるのかもしれないのですけれども、晩年に岸の周りの人たちにインタビューをしたような本などが大体の元ネタになっている話なのです。だから、もうすでにそこで神話化が始まっているところがあって、実体を見るためにはできるだけ当時の原文書とか、周りにいた人たちが同時代的に証言をしているような、後から証言をしているものではないものを厳密に見ていく必要はあるのだろうと思います。
そういう意味では、非常におどろおどろしいエピソードだけを集めると、本当に妖怪のように見えてきます。だから戦後も何度となく、ダグラス・グラマン疑惑のような疑獄事件に関わってくるところはあると思うのです。そういうところをもちろん否定することはないけれども、岸が政治理念としてどういうことをやりたかったのか、何を目指してきたのかという観点から見たときに、むしろそちらのほうが彼のやったことがはっきり見えるのではないかと思います。
岸にアヘンとか疑獄のような話が絶えない1つの理由は、彼が清濁併せ呑む性格であることです。つまり、そばに来るいろいろな人間をいろいろな役割に合わせて活躍する機会を与えてあげる。だから、非常に筋の悪いというか、お金に汚いような人間であっても活躍する機会があればいいのではないか、という性格が非常に大きかったと思うのです。
岸が、自分が幼少の頃の思い出を語っている本があるのですけれども、1つだけ印象深いエピソードがあります。コソ泥にお金を盗まれたのでしょうか、何かがあったのですけれども、そこで言われたのが、盗んだ人間を憎んではいけないと。だから、ある種の善悪で世の中を判断するのではなくて、善人には善人のやるべき仕事があるし、悪人には悪人のやるべき仕事があるというような割り切りがあったということを岸は書いているのです。これは面白いなと思います。晩年になって振り返ったときに、そういう子ども時代のエピソードをわざわざ書いているということは、岸自身もやはり思い当たる節...