●日米開戦への道をたどる
ここで、皆さんと考えたいのです。一体、なぜ日本はこのような状況に直面しなければならなかったのか。これは滅亡の危機なのです。それは言うまでもなく、太平洋戦争、大東亜戦争があったからですね。
ここで、少し時間を取りますが、そもそもなぜ日米は戦争をしたのか。両国がどう戦って、どう行動したのか。この戦争は何をもたらしたのか。皆さんと一緒に、やや詳しく振り返ってみたいと思います。私たちは戦争のことをかなり知っているつもりですが、実はあまり知らないのではないでしょうか。一度、おさらいをしてみたいと思います。
●近衛内閣発足-南進論推進と日独伊三国同盟調印へ
日米開戦までの危うい政治体制と決断についてです。1940年7月、米内光政内閣が総辞職し、重臣会議で陸軍の受けが良い近衛文麿公爵が推されて、17日、大命降下しました。18日、東条英機が陸相に推されます。近衛文麿内閣の課題は、「南進論」と「日独伊三国同盟」。
南進論とはどういうものかというと、「実力でも物量でも勝るはずの日本軍が、なぜ中国を屈服できないのか」という考えに基づいています。その理由の一つとして、援蒋ルートによる東南アジアからの蒋介石支援物資と資金の流れがあったことが挙げられます。当時、援蒋ルートというものがあったのです。東南アジアから中国に物資やお金が流れていました。もう一つは、石油を輸入に頼る日本の石油確保への不安です。そこで、援蒋ルート遮断とインドシナの油田ならびに戦略資源の確保の狙いから、南進論が主張されたのです。
40年9月23日午前0時、大本営陸軍の命令で、第22軍司令官・久納誠一中将が指揮する第5師団が、若干の戦闘はあったものの、北部仏印、つまりベトナムに進駐します。ナチ・ドイツに敗れてパリを占領されていたヴィシー亡命政権に、日本に抵抗する力はなかったのです。さらに、ヨーロッパ西部戦線でドイツの電撃戦が素晴らしい成功であったため、これに動かされて、近衛内閣は9月27日、日独伊三国同盟に調印しました。
●山本五十六の大局観と硬化する対日外交
山本五十六連合艦隊司令長官は1940年10月14日に軍情を上奏、つまり天皇に報告するために上京したのです。その時、西園寺公望の秘書の原田熊雄男爵と食事をしたのですが、そこで「アメリカと戦争するということは、ほとんど全世界を相手にすることですよ。最善を尽くして私は奮闘しますが、きっと惨めな結果に終わるでしょう」と述べました。「デトロイトの自動車工業とテキサスの油田を見ただけでも、アメリカ相手の戦争も建艦競争もやり抜けるはずがない」と大局を見通していたのです。山本五十六司令長官はハーバードで学んでいますし、ロンドン軍縮会議では英語でものすごい弁舌を振るっています。
さて、この決定(日独伊三国同盟)を聞いて、アメリカの対日外交は日本の南進を機に一挙に硬化します。つまりアメリカは、対独抗戦を続けるイギリスやドイツに敗れたフランス、オランダが東アジアに有する権益や植民地を、アメリカの力で守らなければいけないと思っていたのです。そこで、アメリカは既に日米通商航海条約の破棄を日本に通告していましたし、軍需物資の対日輸出を許可制にしました。工作機械の対日輸出禁止に続けて、くず鉄の対日輸出禁止を決定しました。つまり、対日経済封鎖を強化していたのです。
●アメリカはABCD包囲網から対日戦争の準備へ
当時ワシントンに派遣されていた海軍大将の野村吉三郎大使とコーデル・ハル国務長官との間で、1941年4月に交渉が開始します。12月8日の日米開戦の日に打ち切られましたが、全体で50回ほど繰り返されました。アメリカの要求は「日本軍の中国大陸からの全面撤兵、南進政策の放棄、北部仏印からの撤兵、防共駐兵・満州国は容認できない」という内容でした。日本は、これではそれまでやってきたことが全部ゼロになりますから容認できません。つまり妥協できなかったのです。
当時、「あんな国はやっつけろ」「ソ連と組んで戦うんだ」などと言って、アメリカに盾突いた松岡洋右外務大臣がいました。この人は、英語は西洋人よりうまいといわれているほどなのですが、気が強くて日米交渉の障害になっていました。そこで、「こいつをババ抜きしなきゃいけない」ということで、近衛内閣は41年7月16日に総辞職したのです。
そうして第三次近衛内閣を編成しました。しかし、7月16日では時すでに遅し。7月25日、アメリカは在米日本資産を凍結してしまいました。つまり、在米日本人の経済活動ができなくなったのです。翌日にイギリス、翌々日にはオランダがそれに倣いました。中国と戦争をしている日本を封じ込めたのです。これを「ABCD包囲網」といいます。アメリカ(America)、イギリス(Britain)、中国(China)...