●コーランに対して聖書はなぜ法律にならなかったのか
―― コーランが法律になっているのに対し、聖書は法律にならなかったというのは、どういうことなのでしょうか。聖書が法律になる流れはなかったのですか
橋爪 まず、旧約聖書は法律です。これはユダヤ教の聖典で、モーセの律法という法律です。それに従っているのがユダヤ教徒で、ユダヤ法に従っています。だから旧約聖書はそのまま読めば、神の命令であり、法律なのです。
そんななか、イエスが出てきて、こうした細かい法律に従うと、従えない人がいじめられて、差別になるから、ほどほどにしようと言いました。「神さまはそんなことを望んでおられない」という主張です。ですから、割礼などは基本的に全てやめてしまおうと決めました。パウロが、それで良いという論文を書きました。
いくらユダヤ教を素晴らしいと思っても、ギリシア人のような異教徒は、改宗できません。割礼などのさまざまなルールがあり、敷居が高いためです。しかし、こうした法律をやめてしまったキリスト教の場合、ルールがなにもありません。イエス・キリストを信じて、洗礼を受けるだけです。割礼は痛いものですよね。それに対して洗礼は、水を垂らすだけなので、痛いということはありません。これにより、信者が増えていきました。
ですから、それまでのユダヤ法は、聖書では律法であると書いてあります。それに対して、イエスは律法などなしにすると言いました。神の命令です。神に言ってもらわないと、律法はなしにはできません。しかし、イエスが律法をなしにしたから、キリスト教は法律ではないのです。
●中国の腐敗という根本問題
―― 中国は、腐敗という、すごく深刻な問題を抱えています。中国は、これからどうなっていくのでしょうか。
橋爪 いろいろありますが、まず民主化・自由化して、ヨーロッパ並みの、あるいは少なくとも日本並みの国になるかどうかが問題となります。アメリカは、中国が1979年に改革開放を始めてから、ずっと関与政策を行ってきました。関与政策とは、マルクス主義・社会主義のやり方ではなく、本人たちがやろうとしている市場経済を肯定的に捉えるものです。最初に経済の自由化を促し、その後に政治的な自由化と民主化を実現させるということを、アメリカは政策プログラムとして想定していたので、経済が発達していけば、だんだん自由化、民主化が進むはずだと考えていました。韓国も台湾もそうだったからです。しかし、中国はいつまでたっても、政治的自由化・民主化が起こりません。
1つの兆候は天安門事件(1989年)でした。学生が自由・民主化を求めて、いろいろ活動したため、血を流して弾圧し、共産党の権威を守ろうとしました。あれで中国の人は縮み上がってしまい、政治的な自由化を要求すると弾圧され、ひどい目に遭うと考えるようになり、おとなしくなってしまったのです。これは、中国では非常に効果的でした。他の国であれば、ますます恨んで、いつかチャンスを見て革命をしてやろうと考えそうですが、そうなりませんでした。
これには中国の経験が関係しています。統一政府という強い政府が必要であり、これがなくなると、ひどいことになったという歴史の教訓があります。ですから、腐敗があろうと少し問題があろうと、共産党があったほうがないよりいいと考えるのが、マジョリティです。そのため、いつまでたっても共産党は倒れません。アメリカの関与政策もうまくいきません。
●これから中国はアメリカとの本格的な戦いが始まる
橋爪 そこで、アメリカはやっと気がつきました。少し資本を入れ過ぎたのです。情報も与え過ぎました。市場も開き過ぎました。与えていない情報まで中国は取っていきました。これで良いのかと考え始めたのです。そのため、本格的に対抗措置を取りはじめました。これは民主党と共和党の合意によるものであって、ドナルド・トランプ大統領の思いつきによるものではありません。
そうすると、ガチの勝負です。しかし、両方とも核兵器を持っていて、経済的にもこれだけ深い絆があるため、物理的な戦争は双方とも選択できません。経済戦争といっても、どのように落ち着くのかが、よく分かりません。現在、殴り合っている状況です。
現実主義者は、殴り合わないほうが得なので、殴り合いにならないはずだと言っていますが、もうすでに殴り合っています。どうして殴るかというと、優位を示して、相手に言うことを聞かせるためです。そうしたら、相手はイヤだから、殴り返します。殴り返されたら、こちらも痛い。痛いからといって殴るのをやめたら勝てません。痛くても殴り続けます。よって、いかに思い切るかが問題になっているのです。
●中国は負け方を知っている
橋本 本当の殴り合いになれば、今であればア...