●「幸せじゃない」人にこそチャンスがある
津崎 そうすると(感情がクラウドのように共有できるものだとすると)、幸せもその感情の一種である限りで、後づけやバージョンアップができるということ?
五十嵐 そうそう。
津崎 今までは「これが幸せだ」というふうに教えられてきたし、「これが幸せだ」というふうに今までは感じてきたつもりだけど、実はそうじゃないというふうに、思いも感情も学び直すことができるということですね。
五十嵐 そう。幸せになりたい人が多いというのは、「幸せになりたい」けど「今は幸せじゃない」、という二つの文がくっついている。それは、「幸せになりたい」、かつ、「今は幸せじゃない」というのをセットでそのまま覚えちゃっているから。
人って、いつでもその覚えた公式を自分に当てはめて、「わたしも幸せになりたい」、なぜなら、「わたしは今、幸せじゃないから」というのを覚えて、それを自分に当てはめちゃっているんじゃないのかな?
津崎 でも逆に言うと、「幸せになりたい」、なぜなら「今、わたしは不幸だから」、だからこそ「幸せになりたい」と思っている人ほど、実はチャンスなんじゃない?
五十嵐 チャンス?
津崎 それって、学び直しの可能性があるってことじゃないかな?
五十嵐 そうそう。不幸だと思っていれば、「なんで、こんな不幸なの?」と思うから。
津崎 そう。「不幸だと思っていれば」ということは、不幸の反対が幸せだから、「幸せでない」と思っているということは、幸せについてのそれなりの「前理解」(前提となる理解)があるわけですね。それは偏見かもしれないし、文化とか伝統のなかで定義づけられてきた幸せかもしれない。それに照らして、「わたしはそうではない」、したがって「不幸である」と。
というふうに、まだ言語化できていないけれども、でも思いに素直なところで「わたしは今、幸せではない。不幸だ」と思っている人ほど、実は自分なりに幸せや不幸ということを意味づけ直すことができるというか、定義し直すことができる。
五十嵐 そう。それが「卒業」だと思う。
●「明日のために、今日はつらくても頑張れ」という教育
津崎 「卒業」。何からの卒業?
五十嵐 学校からの卒業だと思う。
津崎 学校? その学校というのは文字通りに受け取っていい?
五十嵐 そう。だから、普通、学校というと…。
津崎 教育ということですね。
五十嵐 教育の学校。小学校、中学校、高校、大学はみな、例えば「あなたは100点満点で30点ですよ」とか「80点ですよ」ということを言っていて。いつも「もっと点が取れるはずですよね」みたいな、「あなたはまだできないけど、できるようになるはずですよね」という。「できるようになる」ということと、まだ「わたしはできない」ということをセットで教えている。
それで、「いい高校に入るために」とか、「いい大学に入って、いい就職をして、いい結婚をしないと、あなたは幸せになれない」、だから「今日ちゃんと宿題をしないと、あなたは将来幸せになれないんですよ」ということを、洗脳するでしょ。(視聴者に)すみません。先生が見ていたら、ちょっとごめんなさい。
そういうふうに思ってくると、子どもというのは「わたしはまだダメなんだ」「なぜなら子どもだから」「わたしが幸せになるのは、大人になってからなんだ」ということを学ぶ。大人になる=未来に幸せになるためには、「今」つらくても頑張らないといけないんだと思ってしまう。
でも、ほら、人間はもう今日しか生きられないじゃない? 明日を生きることは、できないじゃない? だから、今日はずっとつらい。今日はつらいけど、しょうがない。なぜなら、「今日つらくないと、明日幸せになれない」と思うから。明日になっても、「わたしは今日つらいけど、頑張らないと明日になっても幸せになれない」と思う。
また明日になって、今日が来てということで、ずっと今日。それで、幸せな明日というのは、ずーっと(手で押しやる)あっちのほうへ行っちゃって、ずっと不幸。
●カントの幸福論と法治国家 vs 父権的国家
津崎 今、さっちゃんの話を聞いていて、もしかすると全然文脈は違うかもしれないけれども、ちょっと頭をよぎったのはドイツの哲学者のカントなんだけど。要するに、学校ないし教育において、「これが幸せである」と「これが幸せでない」と二つを組み合わせて、あらかじめ用意された定義でもって若い人たちを――どういう言い方したらいいかな――レールに乗せていくということをやると、少し……。
五十嵐 洗脳でしょ?
津崎 そう。洗脳なんだけど。洗脳って、僕も洗脳されてきたし、大学教師を名乗っているから、一応...