●戦後体制の大変化とドル変動相場制への移行
このように、さまざまな感染症の歴史を人類は経験してきています。これらの歴史的経験から、われわれは今何を学ぶべきか、皆さんと一緒に考えたいと思います。
今回のコロナウイルスパンデミックが起きる直前の世界像を考える上で、4つの大変化の潮流があったと思います。1つは、第二次大戦後につくられた、いわゆる戦後体制が大きく変質していました。
戦後体制は、1944年7月にニューハンプシャー州の片田舎のブレトンウッズという村に関係者が集まって、戦後の世界の設計について話し合ったところから始まりました。そこで、国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD)が創立されました。もっとも重要なことは、この戦後設計の中で、アメリカのドルを基軸通貨とする固定為替相場制をとったことです。その後、アメリカを中心に世界の軍事・政治・経済体制を立て直し、平和を維持し発展させることを目標として、パックス・アメリカーナと呼ばれる体制が構築されました。1945年10月24日に、国際連合の本部がニューヨークに建てられたことも象徴的ですよね。
ところが、この体制が変質します。その分水嶺となったのが、1971年8月15日のいわゆるニクソンショックです。私は偶然この時、夏季講座のためにシカゴ大学に滞在していました。その日の夜に、今晩はニクソン大統領の特別声明が出るというので、みんなでテレビの前に集まりました。するとニクソン大統領はこういいました。8月15日は日本が降伏し終戦した記念すべき日だが、状況が変わった。現在、日本の対アメリカ輸出が伸びてきて、貿易赤字が拡大してきている。それまでは金の兌換制度に基づいて金で裏打ちしていたので、金のストックが急激に減少してしまうわけです。だから、日本が敗戦したこの日に兌換制を廃止すると宣言したのです。非常に強い印象が残っています。実際に廃止しましたが、なかなかうまくいきませんでした。
●レーガン政権による双子の赤字とプラザ合意
その後、レーガン政権となりました。1980年代はレーガン政権という長期政権の時代でした。この政権下でも貿易赤字が拡大していました。そこでレーガン政権では、供給重視の政策で競争力を向上させることで赤字を減らすことを目指しました。しかし、減税すれば経済に力がつくという妙な理論に基づいていました。さらに、軍事費が大きく拡大しました。結果として、競争力は伸びず、貿易赤字に加えて財政赤字も拡大して、双子の赤字という問題に苛まれることになるのです。
すると、レーガン政権ど真ん中の1985年9月22日に突如、主要5か国の代表をプラザホテルに集めました。その会議の中で、要するに日本に円高を強制したのです。当時の竹下登首相が出席しましたが、たったの15分で解散したそうです。ヨーロッパ諸国はアメリカに同調するというシナリオが、事前に作られていたのです。
日本は輸出立国だと皆思っていたので、円高にすれば中小企業が立ち行かなくなり日本が滅びてしまうという危機感が芽生えました。そのため、大蔵省が大幅に財政支出を拡大し、日銀の金利が非常に低い水準になりました。この政策で輸出を維持することを目指したのですが、今のわれわれから見れば、あの政策はオウンゴールで、大失敗の原因でした。この政策によって、過剰流動性の兆候が出てきました。当時の日本経済にはこの過剰流動性を吸収するほどの体力はなかったので、資産と土地に流れました。例えば東京23区を売るとアメリカ全土が買えるなどと、馬鹿げたことがささやかれた時代ですよね。現在の中国にも似たような傾向があります。
●オバマ政権から世界の警察ではなくなったアメリカ
一方、アメリカは戦争の連続です。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、アフガン戦争。1980年代当時はベトナム戦争の直後で、湾岸戦争の直前です。アメリカは相当疲弊していました。オバマ政権になると、世界戦略に対して非常に消極的になってしまいました。アメリカはもう世界の警察官役は務めない、とオバマ大統領は発言しました。実際に、アフガンからの撤退の動きを進めていました。
シリアでは、国民に対して化学兵器を使用した場合、レッドラインを超えたと見なして爆撃すると約束していましたが、オバマ大統領の態度は軟弱でした。アメリカ大統領は、議会の承認がなくても、2か月間は軍隊を指揮することができます(議会の承認が得られない場合は60日以内に軍を撤退させなければならない)。それにもかかわらず、議会に相談したために、中国やロシアから足元を見られるようになってしまいました。しかも、中国に対しても、戦略的忍耐を掲げて強く出ることができませんでした。ですので、オバマ大統領は、アメリカを弱体化させた大統領という評判です。
そ...