●「人間以上のものになろう」と必死に生きる
執行 三島由紀夫も、あの時代に言っていました。「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」という有名な言葉があります。「なんであなたは、人間なんかになったのですか」と三島由紀夫が言って、それで死んだのです。『英霊の聲』の中に書かれた言葉ですが、私はあの気持ちがよくわかります。天皇は、そのへんのくだらない人間なんかになってはダメなのです。少なくとも、とてつもなく高貴な人でなければ。当たり前でしょう。
厳しく言ってしまうと、三島由紀夫 みたいな本当に頭のいい人が厳しく見ると、あの天皇の「人間宣言」から、もうダメなのです。だから、あの有名な「などて……」の言葉を遺して(三島由紀夫は)死んだのです。
―― だけど昭和天皇の場合は、戦前の帝王学を受けています。(倫理を進講した思想家の)杉浦重剛もいたし、そのような人たちで支えてきました。
執行 だから、身分差だったのです。天皇陛下(昭和天皇)が人間宣言をしたのは、マッカーサーにさせられたわけですが、宣言したのは大人になってからです。若いときまでは神として育てられていますから、全然違います。皇后陛下(香淳皇后)も、宮様の家の人だから同じです。
ただの人間はダメなのです。やはり、人間より上にならなければ。これは、われわれもそうです。私は、なれるかなれないかは全然わかりませんが、そうなろうと思って生きています、ウナムーノという私の尊敬している哲学者が、「人間以上のものになろうと必死に生きて初めて、人間程度のものにしかなれない」と言っています。
―― すごい言葉ですね。
執行 そうです。『ドン・キホーテとサンチョの生涯』 という主要著書の中に書いてある言葉です。私はこれがすごくわかります。
たとえば私のこの事業は、たいした事業ではありませんが、この程度の事業を作り上げるのに、私が持っていた理想や夢は、今の100倍とは言いませんが、50倍はありました。人はよく私を「ある程度やった人」と言ってくれますが、とんでもない話です。私が思っていた理想や夢の50分の1、100分の1も、まったくまだ達成できていません。人間のエネルギーとは、そういうものです。
―― そうでしょうね。まだ戦っている最中ですからね。
執行 私はこれを医学理論でも言っています。「何でも過剰にできるだけの力がないと、ちょうどいい量はできない」と。
―― 確かに、過剰にやらないと、できないですね。
執行 そうです。私は読書家で、死ぬほど本を読んできましたが、必要な分だけ適当に読んでいたら、本なんて何にもなりません。本は、死ぬほど読まなければダメなのです。死ぬほど読んで、ちょっとした教養が身につくかどうかという程度です。私は自分が読んできて、そう思います。読んでいるときは、死ぬ気ですが。
●「芸術のためだけに死んだ人」の作品が訴えかけるもの
執行 だから私は今、「憂国の芸術」と名を付けて、芸術作品をたくさん集めています。集めているのは、「自分の生涯を芸術に捧げた人」の作品です。芸術のために生きて、芸術のためだけに死んだ人、かつ私が芸術として素晴らしいと思う人のものを集めています。
その芸術のために死んでいった人たちの心が、芸術の中にはこもっているわけです。戸嶋靖昌はその代表です。
―― 戸嶋先生の絵は、本当にそうですね。
執行 無名のまま、芸術にすべてを捧げたまま死んでいった。それが芸術の中に入っています。これは才能がある人が、たとえば300年後に見てもわかります。ただし才能のない人はダメです。
今の教育の間違いは、「才能のない人」をどうにかしようとしていることです。才能のない人は、切り捨てなければいけない。悪いですが、これが歴史の真実です、才能のある人に、どうやって才能を継承してもらえるかが教育であり、文化なのです。今はすぐ「差別だ」何だと言われますが、これが歴史の真実であって、しょうがないことです。
―― 1965年に200万人でシンガポールを強引に独立させたリー・クアンユーが、当時35歳で「涙の演説」をしました。あれだけ優秀で、傲慢だった人でも、自信がなかったのです。その彼がやった教育は、「ハイエンドの人を作らなければ、水も食料も何もないこの国は食える国にならない」というものでした。まさに先生が言われたとおりです。英語を喋れる人は200万人のうち20万人しかいない。だけど公用語は英語にする、飯を食うために。それが結果として、1人あたりの所得でみれば、日本の倍になったのです。だからシンガポーリアンは豊かです。
執行 今、そうですね。
―― 先生の言われたとおりだと思います。
執行 今の(日本の)人は、悪い意味の民主主義になってしまって、忘れてしまっています。国家とは、会社も...