●そもそも教養とは何か
―― これは後半でもお伺いしたいと思いますが、ちょうどネット環境も整ってきた状況なので、ネット社会でどのように学んでいくのかということを、ぜひお聞きできればと思います。
橋爪 そうですね。
―― 先ほど、なぜ本から学ぶことが教養として大事かというお話をいただきましたが、まずその前提として、そもそも教養とはいったい何なのかということをお伺いしたいと思います。
先生はご本に非常に印象深いことをお書きになっていて、教養を「これまで人間が考えてきたことの全て」と定義しています。これは非常に広大な定義ですが、「これまで人間が考えてきたことの全て」とは、どういう位置づけでしょうか。
橋爪 他の人が考えてきたこととは、自分にあまり関係なくても良いものです。なぜならそれは、自分とは別の場所で、別な形で考えられたことだからです。自分が生きていくためには、私自身が何を考え、どのように行動するかが重要です。そして、それが正しいかどうかだけが、とりあえず問題になります。だけど、自分の考えと自分の努力で、全ての問題が解決するでしょうか。
―― そこは前回の小さく見える自分と一緒の問題ですね。
橋爪 はい。目先のことに捕らわれていては問題解決しません。過去によく似た例がありました。しょっちゅう起こる事象なのに、それを知らずに、最善でない決定や最善でない行動をしてしまう。要するに、ばかばかしいことをしてしまうことはありがちです。でも、一回しかない人生だから、あまり大きな失敗を何回も繰り返したくないですよね。
では、どうしたら良いのかというと、知恵が必要なのです。「こうしたことはよく起こる」と知っておくのです。こうしたときに、前の人はどのようにしてそれを乗り越え、解決したのかを分かっていると、参考になりますよね。だから、そういうことを知るのは十分に意味があります。
滅多に起こらない大事件は、起こらないかもしれませんし、起こるかもしれません。起こらなかったとしても、そのために備え、安心と覚悟を持って生きているのは、立派なことです。このことは、今この場所に生きているという時間的、空間的な自分の制約を超えているということなのです。
自分の制約を超えることができれば、その人の誇りになる。確信を持って生きているという状態になります。これが教養です。
そのために役に立つものは、他の人がどうしたのかという知恵です。今までに生きていた人が考えた事柄の全てが参考になり得ます。それが教養です。
●文字として残されているものは全体のほんの一部にすぎない
橋爪 過去の出来事は全て参考になるのですが、それらを実際に当事者に会って伝えてもらうことはできません。しかも、これまでに生きていた人びとが考えた事柄の大部分は、ほぼ蒸発して、消えてしまっています。ほんの一部分が文字になって伝わり、残っているにすぎません。だからわれわれは、残っているものから学ぶしかないんです。そして残すほうも、「これは大事なことだから忘れられてしまわないように、字で書きましょう」と思って残したはずです。だから取りあえずは、これまでに書かれた本の全てが教養になります。
この時点で、サイズがだいぶ小さくなってしまいました。実際に生じたことの1000分の1、1万分の1ぐらいでしょう。
―― 全人類が考えてきたことの中で、本で残っているものは、すごいということですね。
橋爪 これはほんのわずかなものですが、それでも膨大で、絶対に読みきれない分量です。この時点でかなりサイズが小さくなっているということが分かったと思います。
●目先の問題ではなく、まだ見ぬ問題のために
―― まさに先生もご本の中で、教養とは自分の狭い範囲を超えていくためのものであり、それを実践しなければいけないという話をされています。しかし、それだけ膨大なものにどう取り組めばいいのかという問題があります。その答えとして、明確な目的意識など持たずに、広く教養に触れるしかないということを書かれています。
先ほどおっしゃったような、前例で何か参考になることがあるかもしれないというお話と、この目的意識を持たずに、広く教養に触れるしかないというのには、どのような関係があるのでしょうか。
橋爪 問題がもう目に見えていて、ここにある場合は、それに対処するための方法を学べばいいだけです。これは教養とは言いません。
例えば、料理ができるようになりたい人が料理を作りたいのであれば、料理の本を買ってきて、それを読めばいいだけです。材料の選び方、切り方、茹で方、炒め方など、そこに作り方が書いてあります。盛り付けも、その通りにやればできます。これで目的は達せられます。
料理を作ろうと思っているときに、魚の...