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当時、国家に反対し、転覆しようとする社会運動ならびに思想運動を取り締まるために特高(特別高等警察)があった。これは、幸徳秋水らが明治天皇の暗殺を計画したとして逮捕・処刑された事件(大逆事件)をきっかけに、事件の翌年の明治44年(1911)に発足したものであった。
たまたま当時の特高の首脳が書いたものを読む機会があったのだが、特高の取り締まりの対象は右翼が第一で、その次が左翼だったという。
戦後になって、われわれには共産主義が巨大な勢力のように見え始めたが、当時は共産党そのものはちっぽけなもので、それほど恐れるに足るものではなかった。その頃、共産党の天皇制廃止という方針は国民大衆の支持を勝ち得るものではなかったし、人々の間には尼港事件のときに共産ゲリラが凄惨な虐殺を行なった記憶が残っていたから、共産主義への嫌悪感も大きかった。
話は少し逸れるが、私は戦争中に特高に捕まり警察の取り調べ所に入れられていた親類の者に、当時の心境を尋ねたことがある。その人物から「いまと違うんだよなあ。戦争中だから、兵隊に行くと思えば・・・」という話を聞き、なるほどと思った。
戦後になって、思想犯で逮捕されていた共産党員たちが獄中から大威張りで出てきたが、彼らが獄中にいた頃、普通の日本男児は軍隊に行き、敵弾が飛んでくる戦場で、もっと大変な目に遭っていた。いまの人にはわからないかもしれないが、戦争中はたとえ監獄に入れられても、「軍隊に入ると思えば我慢できた」のである。その話を聞いて私は、健康な青年や壮年者が共産党員として監獄に入ったことは勲章になどなる話ではないと、しみじみ痛感した。
もう一つ、彼の話で印象的だったのは、裁判に対する絶対的な信用があることだった。彼は「いま、自分は警察で調べられているからこういう仕打ちを受けるのだ。警察は政府の手先だ」と思っていたが、大日本帝国憲法の57条に「司法権は天皇の名に於て法律に依り裁判所之を行ふ」とある通り、裁判官は天皇の代理だから、「裁判になれば絶対無罪になると信じていた」というのだ。当時の思想状況には、そういう側面もあった。
いずれにせよ、真っ向から国家転覆と皇室廃止を謳う共産党は、特高の主要な取り締まり対象であったが、当時、組織の内偵もかなり進んでいて、政府としても、まったく怖い存在ではなかったらしい。
事実、共産党は組織としてはほぼ壊滅に追い込まれ、それ自体として日本国民に大きな影響を及ぼすことはなかった。むしろ共産主義で怖かったのは、第一章でも見たように、そのシンパが国家中枢や軍中枢に入り込んで、内側から国家に打撃を与えていたことであった。
表面的に見れば、戦前は、左翼よりも右翼のほうが、社会的に大きな影響力を持っていた。
というのも、右翼は軍部と結びついたからである。
本章の冒頭で紹介した海軍中尉・三上卓らが起こした五・一五事件(昭和7年〈1943〉)にも、右翼団体の私塾「愛郷塾」の農民決死隊が参加している。
同年2月から3月にかけて起きた血盟団事件でも、井上準之助元蔵相と三井合名理事長の團琢磨を殺害したのは、民間右翼の血盟団であった。
右翼の怖いところは、「天皇陛下と自分たちの間に元勲や元老、華族といった存在は要らない、大地主も大資本家も不要で、われわれが天皇陛下と直結するのだ」という思想を持っていたことであった。
先ほども述べたが、当時は、日本で資本主義が急速に発達した頃で、とくに第一次世界大戦を機に、日本が初めて債務国から債権国になり、「成金」という言葉が流行るほど金持ちが増えた。
だが、第一次世界大戦後には、ヨーロッパが徐々に復興して欧州製の製品が再びアジアに出回るようになり、その煽りも喰らって日本は不景気になっていく。さらに、関東大震災(大正12年〈1923〉)、片岡直温蔵相の失言で取り付け騒ぎが起きたことで発生した金融恐慌(昭和2年〈1927〉)などが起きて、日本経済はますます苦境に追い込まれていく。労働者の賃金はなかなか上がらず、社会的な不満が鬱積していった。


