≪全文≫
大正時代の一つの大きな問題は、日露戦争の頃から広がりを見せ始めた社会主義が、大きく流行したことだ。女権拡張運動が起きたり、明治時代後半に翻訳され始めたノルウェーの劇作家イプセンの『人形の家』が広く読まれたのも、この頃である。
従来の社会主義運動は、「貧乏人を救え」というぐらいの話であって、多少過激なものはあっても、私有財産の廃止や皇室の廃止などを唱える恐れはなかった。要するに、良性の社会改良運動だったのである。
ところがロシア革命が起きて共産主義政権が成立すると、ソ連は「万国の労働者よ、団結せよ」と唱え、国境を越えて国際共産主義運動を展開し始めた。そうなると、これまで「貧乏人を救え」という程度だった観念が、「国家を転覆せよ」という観念に変わってくる。これは単なる社会改良運動ではなく革命運動であり、これが日本でもさまざまな方面に影響を及ぼすようになったのだ。
もう一つの問題は、左翼と右翼の混在である。左翼はもちろん社会主義に端を発していて、「貧乏人の味方」という旗印は昔からあった。ところが今度は、左翼が「皇室廃止」という革命思想を持つようになったため、左翼的な志向を持っていながら「反皇室」には与しない人々が、天皇陛下を奉ってはいるものの社会政策としては左翼とほとんど変わりがない主張を打ち出すようになったのである。天皇陛下を奉っているために「右翼」と称されるが、しかし、その実は「左翼」的な運動が展開されたのである。
戦前の右翼のバイブルとして有名なのは、やはり北一輝の『日本改造法案大綱』であろう。
この中で北は、まず、
〈天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんがために天皇大権の発動によりて三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を布く〉(※読みやすさに配慮して文字遣いや表記を適宜変更し、句読点などを補う。以下同)
とするが、それで実現するものは、
〈華族制を廃止し、天皇と国民とを阻隔し来れる藩屏を撤去して明治維新の精神を明かにす〉
〈従来国民の自由を拘束して憲法の精神を毀損せる諸法律を廃止す。文官任用令。治安警察法。新聞紙条例。出版法等〉
〈天皇はみずから範を示して皇室所有の土地山林株券等を国家に下附す。皇室費を年給三千万円とし、国庫より支出せしむ〉
〈日本国民一家の所有し得べき財産限度を壱百万円とす。海外に財産を有する日本国民また同じ〉
〈私有財産限度超過額はすべて無償をもって国家に納付せしむ〉
〈日本国民一家の所有し得べき私有地限度は時価拾万円とす〉
〈私有地限度以上を超過せる土地はこれを国家に納付せしむ〉
〈私人生産業の限度を資本壱千万円とす。私人生産業限度を超過せる生産業はすべてこれを国家に集中し国家の統一的経営となす〉
などというものであった。
つまり、華族制を廃止し、私有財産・土地の限度を設定してそれを超える財産は国家が没収し、私企業も規模を制限してそれを超えるものは国有化する、という計画なのである。
しかも、国家改造を始めた最初の3年(つまり北が戒厳令を布くとする期間)に、私有財産の没収や企業の国有化に違反する者は、法律の保護の外に置き、死刑に処するのだと主張する。
〈この納付を拒む目的をもって現行法律に保護を求むるを得ず。もしこれに違反したる者は天皇の範を蔑にし、国家改造の根基を危くするものと認め、戒厳令施行中は天皇に危害を加うる罪および国家に対する内乱の罪を適用してこれを死刑に処す〉
北の構想によれば、在郷軍人団(現役を離れた予備役や退役の軍人組織)を内閣直属の機関として、これらの改革を断行させるのだという。
これらの主張を読めば一目瞭然だが、極論すれば、天皇が「国家改造」を行なうという一点を除けば、共産党の「革命プログラム」と、ほとんど変わりのない主張をしているのである。
昭和6年(1931)3月に、右翼諸団体が結集して「全日本愛国者共同闘争協議会」という連合体をつくっているが、その綱領にも、北の主張と通底するような思想が見て取れる。
〈一、われらは亡国政治を覆滅し、天皇親政の実現を期す〉
〈一、われらは産業大権の確立により資本主義の打倒を期す〉
〈一、われらは国内の階級対立を克服し、国威の世界的発揚を期す〉
つまり、天皇親政という名の独裁政治を実現し、軍に対する統帥権のような「産業に対する天皇の統帥権」(産業大権)を確立して、資本主義を打倒しようというのだ。
まさに彼らの正体は、紛うことなき「右翼の社会主義者」だったのである。
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情報・テキスト
北一輝
近代日本人の肖像
日露戦争の頃から広がりを見せ始めた社会主義は、大正時代に入ると大きく流行した。従来の社会主義運動は「貧乏人を救え」というぐらいの話だったが、ロシア革命が起きて共産主義政権が成立すると革命運動になり、日本でもさまざまな方面に影響を及ぼすようになった。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第三章・第3話。
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