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では、昭和初期は兵隊ばかりが威張る暗黒の時代だったのか。
けっしてそうではない。軍による国家総動員体制が確立するまで、戦前の日本国民は兵隊さんが大好きだった。
二・二六事件のときでさえ、東京の人たちは平気で外を歩いていて「兵隊さん」と声をかけていた。兵隊さんが日本人を撃つわけがないから、全然怖くなかったのだ。要するに、軍と民との関係が非常に良かったのである。
考えてみれば、百姓の子供であっても兄弟などが軍人になっているわけだから、兵隊さんには親しみがあった。小学校の教科書にも兵隊さんの話が出ていたし、『僕は軍人大好きよ』という歌もあった。
教室の中では日清・日露戦争の話が常に語られ、広瀬中佐や橘中佐、東郷元帥、乃木大将などの活躍について、血湧き肉躍るような口調で先生が語ってくれた。
私が小学校に上がった昭和10年代といえば、日露戦争からまだ30余年である。いまから30年前にどのような事件があったかを思い起こしてもらえばすぐに合点がいくと思うが、日露戦争の記憶は当時の人々にとっては、つい先頃のこと。しかも、あれほどの大戦争だから、濃厚な記憶として社会に残っていた。
それだけに、軍人が嫌いだという人は、左翼などのごく限られた人たちだけだった。特高(特別高等警察)はものすごく嫌われたが、軍人は嫌われていない。
嫌われるようになったのはシナ事変が長引いて配給制度が始まり、その元を軍が握るようになって、軍人が民間会社の社長にまで下りてくるようになってからだ。
なぜそうなってしまったのかについて、少し掘り下げてみたい。
前章でも触れたように、第一次世界大戦を観戦した武官たちを中心に、兵器におけるエネルギー革命(石油の使用)や国家総力戦(トータル・ウォー)の実態を目の当たりにして、「日本は戦争ができない国になる」と大きな危機感を抱いた軍人たちが生まれた。陸軍におけるその代表的な存在が、永田鉄山や東條英機らであり、彼らは総動員体制の構築や国家社会主義について研究を重ねた。
そしてシナ事変が始まり、物資が不足してくると、日本に国家社会主義が急速に台頭し、国家総動員法の成立(昭和13年〈1938〉)にともない、配給制度をはじめとする経済統制が本格化するようになる。そこに、軍部と同様に反政党の姿勢を持つ新官僚たちも加わり、初めて威張る軍隊が出てきたのである。
われわれは子供だったから無関心だったが、うちの伯母が「軍人さんに占領されているみたいだね」と話していたのを覚えている。
だから一般的な日本人の場合、反軍思想があったとすれば、昭和13年に配給制度が始まってからだと思う。それまでは、兵隊さんが嫌いだという人を、私は見たことも聞いたこともないし、ちょっと想像できない。
そもそも、とくに農村などでは、兵隊さんの家は暮らしぶりがいいことが、皆わかっていた。
私の実家のすぐ近くの、とあるお店の親父さんは将棋ばかりやっている怠け者で、家が壊れて薄汚れていたほど貧乏だった。ところが、たまに田舎からお婆さんが来ては、その親父さんを叱りつける。
その当時、お婆さんが大の男に命令するということは、とても考えられないことだったから、私は「なぜ、あの田舎から来るお婆さんはあんなに威張っているんだろう」と大人たちに聞いた。すると答えは、「そのお婆さんの旦那さんが、日露戦争に出征して金鵄勲章をもらったからね」というものだった。
旦那さんは百姓で召集された兵隊だった。彼は斥候として手柄を立てたという。そして金鵄勲章を授けられたのである。金鵄勲章をもらうと兵隊でも功7級~6級の終身年金が出た。一番下の功7級でも100円(日露戦争時)で、本人が死んでも年金はその未亡人に終生支払われていたとのことである。
当時の東北の農家では、食べる物や着る物にはそれほど不自由しなかったが、現金収入がほとんどなかった。ところが、そのお婆さんの家には、たいした額ではなかったにせよ、定期的に現金が入ってくるので威張っていたのだ。


