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そしてその約1カ月後に浜口首相が辞任し、第二次若槻礼次郎内閣(昭和6年〈1931〉4月14日~12月13日)が発足する。宇垣大将は三月事件の責任を取って陸相を辞任し、同年6月に予備役に編入され、朝鮮総督に任命された。第二次若槻内閣の陸軍大臣は南次郎大将になり、その次の犬養毅内閣(昭和6年〈1931〉12月13日~7年〈1932〉5月26日)では荒木貞夫中将(のち大将)が陸相を務めている。
先にも触れたが、犬養首相は立派な人物ではあったが、統帥権干犯を掲げて浜口元首相を激しく批判するという、非常に害のあることも行なっていた。だが犬養首相と宇垣大将は郷里が同じ岡山で仲が良く、宇垣大将は犬養首相が組閣をするときに朝鮮から手紙を送り、いろいろと注意を与えていたという。
その注意の中でたった一つだけ漏れたことがある。
それは、荒木中将を陸軍大臣にしてはいけないということだった。
先ほど述べたように上原勇作大将は反長州閥をつくっていて、荒木中将はその流れに連なる人物であった。これがのちに皇道派と呼ばれるようになる。
三月事件の結果、宇垣大将が失脚したことで、陸軍を政治的に抑える力を持った人がいなくなってしまったことが改めて悔やまれる。そういう力を持った人物は、のちの第二次近衛内閣(昭和15年〈1940〉7月22日~16年〈1941〉7月18日)で東條英機中将(のち大将)が陸相になるまで、ついに現われなかった。
荒木中将は陸相になると、恥ずかしげもなく反宇垣人事を実行していくが、それについては後述することとする。
さて、三月事件は未遂に終わったものの、国家改造の夢を抱く青年将校たちの行動は止まらない。三月事件から約半年経った昭和6年10月に、橋本欣五郎中佐、長勇少佐らはいわゆる十月事件と呼ばれるクーデターを計画する。今度は陸相や軍務局長といった上層部を介さず、青年将校だけで蹶起(けっき)することにした。しかも今回は閣僚や政党幹部、財界の有力者などを暗殺し、荒木中将を首班とする軍事政権を樹立する計画を立てるところまでエスカレートしている。
要は、上は頼むに足らず、ということだ。彼らはそのクーデターを10月24日に実行することにしていた。
昭和6年といえば満洲事変が起こった年である(事変勃発は9月18日)。
陸軍からすれば、幣原外交に象徴される大陸政策に関する政府のやり方は手ぬるく、アメリカの反日移民政策に対しても無能で、協調路線の内閣では駄目だと思っていたに違いない。日露戦争以来の日本の満洲での権益が、シナ側の協定違反や現地の反日運動によって次々と危機に見舞われているのに、なんら有効な手を打とうとせず、ただただ手をこまねいていただけだったからである。
その不満、および満洲の危機状況は、満洲事変が起きたことにより解消されることとなるが、日本政府は満洲事変以後、各国から満洲について批判されても自国の立場や日本がシナ側から受けた理不尽な仕打ちについて、まともに説明することができず、「日本はダブルガバメントだ」と批判を受ける有り様だった。こうした憤懣が鬱積する中で、三月事件と同じく橋本欣五郎中佐や長勇少佐が中心になり、再び国家改造クーデターが企てられたのである。
要するに、宇垣中将を含め、将官をはじめとする偉い人たちは全部駄目だというわけで、そのあたりから「青年将校」という概念が確立し始めた。彼らの中で主立ったメンバーは、維新の志士を気取って芸者屋や料亭に居続け、そこでクーデターの計画も立てられた。
十月事件には、陸軍からは桜会メンバーを中心とする120人の将校、近衛歩兵十個中隊、機関銃隊二個中隊、偵察機4機が参加し、海軍からは霞ヶ浦航空隊の爆撃機13機、横須賀から抜刀隊10人が加わる予定だった。民間からは例によって大川周明、北一輝、西田税らが参加することになっていた。
長少佐が指揮して閣議中の議会を襲い、首相以下の閣僚を殺すと同時に、警視庁を占拠し、陸軍省と参謀本部を包囲して上官をクーデターに同意させ、反対する者は捕縛するというのが彼らの計画だった。彼らはまた東郷元帥や閑院宮殿下、元老の西園寺公爵を説き、クーデターを起こした自分たちに組閣の大命が降下するよう上奏させるつもりだった。
彼らが樹立を目指した新内閣には、当時教育総監部本部長だった荒木中将が首相で橋本中佐が内務大臣、大蔵大臣が大川周明、外務大臣は建川少将のほか、霞ヶ浦航空隊司令でクーデターに海軍の飛行機を出すと話した小林省三郎少将が海軍大臣として入閣する予定だった。


