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五・一五事件は、現役の軍人が首相を白昼ピストルで殺害するという前代未聞の事件であり、軍隊が暴走し、本物の暴力によって犠牲者が出たクーデターであった。
事件後、海軍および陸軍でそれぞれ軍事裁判が行なわれたが、陸軍のほうは昭和8年(1933)9月に11名に対して禁錮4年の判決が出ている。海軍の軍法会議では、主犯格の古賀中尉ら3人に死刑が求刑されたものの、判決では禁錮15~13年になるなど、刑が大幅に軽減された。
これには、海軍兵学校の卒業生やクラスメートが、青年将校たちのために助命運動を起こし、嘆願書を出したことが背景にある。また、当時の国民の多くが苦しい生活を強いられていた中で、満洲事変が成功したにもかかわらず、アメリカがたびたび横槍を入れ、日本を敵対視するような姿勢を見せていたことに、国民が怒っていたという事情も大きい。
当時の雑誌の写真にも写っているが、裁判官の机の上には全国から寄せられた減刑の嘆願書が山積みにされていた。被告人たちはクーデターを起こして首相を殺しているにもかかわらずである。
軍法会議を行なうにあたり、海軍では東郷元帥にもお伺いを立てていた。東郷元帥の意見は、「動機などを問う必要はなし。厳罰に処して可なり」というもので、きわめて理路整然としていた。検察官も理路整然としていて、これは海軍刑法の反乱罪に該当するため、首謀者は死刑が相当であると主張した。ところが裁判官が、被告人たちの減刑を求める強い世論に流されてしまったばかりか、主犯格3名に対して死刑の求刑を行なった法務局長も、辞表提出を余儀なくされてしまったのである。
しかしどう考えても、五・一五事件において首相を殺した犯人さえ死刑にしなかったことは、日本政府の最大の失敗であった。
五・一五事件に対する甘い処断で思い起こすのは、主君・浅野内匠頭長矩の仇を討つために吉良邸に討ち入りをした赤穂浪士に対する処分である。この処分も、江戸幕府にとって相当悩ましいものであった。
吉良邸に討ち入った47人(46人ともいわれる)は全員が死罪になったが、斬首ではなく切腹を命じられているから、幕府も一応は情状を酌量したのだろう。当時の江戸幕府の役人たちは、武士道における一点の名誉を重んじながらも、法の支配を貫徹させたのであって、私は昭和の軍部にもそういう考え方が必要だったのではないかと思う。
そもそも赤穂浪士の一件の場合、浅野内匠頭が江戸城本丸の松の廊下で吉良上野介義央に斬りかかった際、幕府は喧嘩両成敗の鉄則を無視し、赤穂浅野家だけを処罰(浅野長矩は切腹し、所領は没収)したのがいけなかった。仮に赤穂浅野家を半地にしても、3分の1にしてもいいから浅野長矩の弟である大学に家督を継がせればよかったのだ。やはり5代将軍・徳川綱吉は少々吉良寄りすぎたのではないか。
喧嘩両成敗というと馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれないが、よく考えてみるとそれなりに意味がある。どちらかが正しく、どちらかが悪いということになると、双方ともに正義を主張し合い、収拾がつかなくなる。ところが両成敗なら、お互いに責め合い、はては殺し合うより、お互いに妥協しようとするものなのだ。
たしかに浅野内匠頭は殿中で刀を抜き、吉良上野介は刀を抜いていないから、浅野内匠頭が悪いといえば悪い。だが浅野内匠頭に対する厳罰主義は、赤穂浪士に対する世間の同情をかき立て、幕府の評判を落としたといわざるをえないのだ。
非常に面白いことに、乃木大将は浅野内匠頭を、「殺す気があったらなぜ抱きかかえて刺さなかったのか。武道不心得である」と批判していた。
五・一五事件に話を戻せば、犬養首相が白昼に青年将校に殺されたことで「民主主義は死んだ」という人もいて、犬養首相はヒーロー扱いされている部分があるように思える。だが犬養首相は、先に紹介したように、かつて野党だった立憲政友会の総裁として、ロンドン海軍軍縮条約の締結をめぐり、政府が軍令部の反対を押し切って対米妥協案を決定したことは「統帥権干犯である」と、政権批判を大々的に行なった人物である。
犬養首相は非常に優れた人物ではあったが、党利党略にとらわれていた。彼が率いる政友会は海軍の強硬派などと組み、統帥権干犯問題を利用して倒閣運動を展開したわけだが、そうした行ないが、のちに青年将校による暗殺として彼自身に跳ね返ってきたのではないかとも思われ、なんともいえぬ気分になる。
ともあれ、五・一五事件の犯人たちに多くの同情が集まり、軽い処分しか下されなかったことが、さらに二・二六事件、そしてその後の危機を招く大きな要因となったことは間違いのないことである。
本章で見てきたように、青年将校たちは「権門上に傲れども国を憂ふる誠なし 財閥富を誇れども社稷...


