≪全文≫
しかも当時の日本政府では幣原喜重郎が外相を務めており、非常に英米に遠慮していて、結局アメリカが日本移民を禁止するのをやめさせることができなかった。幣原は第一次・第二次加藤高明内閣(大正13年〈1924〉6月11日~15年〈1926〉1月30日)、第一次若槻礼次郎内閣(大正15年〈1926〉1月30日~昭和2年〈1927〉4月20日)、浜口雄幸内閣(昭和4年〈1929〉7月2日~6年〈1931〉4月14日)、第二次若槻礼次郎内閣(昭和6年〈1931〉4月14日~12月13日)で外務大臣を歴任している。
「幣原外交」は協調外交だったとして、戦後褒められることが多いが、ある意味で非常に問題の多い外交だったといえる。アメリカとイギリスの意向を聞くのは非常に結構だが、彼らが当時何を考えていたかというと、「日本をこの辺で抑えておかなければならない」ということだったからである。
第一次大戦の戦場になったヨーロッパが戦後に疲弊した結果、大儲けしたのは日本とアメリカだった。アメリカの儲けに比べれば日本はたいしたことはなかったが、当時の近代産業国家として、大戦の被害を被らなかったのは日本とアメリカだけだったのである。
こうしたなか、日露戦争の前から20年以上存続し「日本外交の骨髄」といわれた日英同盟も大正12年(1923)に廃止されたのは先に見た通りである。
また、台頭する日本の力を抑えるために、ワシントン会議(大正10年〈1921〉~11年〈1922〉)、ロンドン海軍軍縮会議(昭和5年〈1930〉)の2回の国際会議で海軍軍縮条約が結ばれている。
ワシントン会議では主力艦(戦艦)の現有勢力比率が米:英:日=5:5:3、ロンドン海軍軍縮会議では日本の補助艦総トン数が対米6割9分7厘5毛、同じく大型巡洋艦が対米6割2厘などで合意した。
第1回目のワシントン会議で戦艦を抑えるという条約は日本もまあまあ呑めたが、第2回目のロンドン海軍軍縮会議では、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦などの補助艦までも抑えることになり、大きな問題になった。というのも日本海軍は、太平洋を横断してくるアメリカ艦隊を迎え撃つ場合、潜水艦、航空機、水雷戦隊の夜戦などで漸減したあとに、戦艦による艦隊決戦を挑むという対米作戦構想を定めていたからである。
そこで起こったのが、いわゆる統帥権干犯問題(昭和5年〈1930〉)だ。
若槻礼次郎元首相、財部彪海相などからなるロンドン海軍軍縮会議の全権委員は米英に妥協し、ロンドン海軍軍縮条約に調印を行なった。ところが海軍の作戦・用兵をつかさどる海軍軍令部は納得しなかった。
大日本帝国憲法では、第11条で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」、第12条で「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」と規定されている。そのため「憲法に陸海軍の兵力を定めるのは天皇陛下であると定められているのに、海軍軍備を抑える軍縮条約を海軍軍令部(昭和8年〈1933〉より軍令部と呼称)の同意なしに決めてきたのは天皇の統帥権(軍事力の最高指揮・命令権)の干犯に当たるのではないか」という声が起こり、海軍軍令部、当時野党だった政友会、民間右翼などが政府を激しく攻撃したのである。
時の首相だった浜口雄幸は、軍備の決定も内閣の輔弼(国務大臣などが天皇陛下の行政を助けること)事項だと捉えていた。統帥権と並んで外交権も天皇にあるが、昔のルイ14世じゃあるまいし、天皇ご自身が条約を結ばれることはなく、立憲君主制では外務省、つまり政府の責任でやる。軍事も同じことだ、と浜口首相は答えている。それは当時の憲法学の通説からいっても、きわめて真っ当な考え方であったが、ジャーナリズムなどはいい気になって、「統帥権干犯、統帥権干犯」とはやし立てたため、「統帥権干犯」が流行り言葉になった。ついには、カッとなった右翼青年が東京駅で浜口首相をピストルで狙撃する事態にまで至る。
浜口首相は重傷を負ったが、幸いなことに即死は免れた。ところが浜口内閣の打倒を狙って、当時の野党・政友会の犬養毅や鳩山一郎らが統帥権干犯を掲げて浜口首相を激しく批判する。政友会は、浜口首相の議会への出席を強く求めた。無理を押して議会に出席していた浜口首相は、病状の悪化のため首相を辞任したあと、昭和6年(1931)8月に亡くなってしまう。
あの頃の日本の政争は、誰が見てもひどいものだった。


