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DATE/ 2024.05.10

『秘密の古代ギリシャ、あるいは古代魔術史』が示す欲望の世界

 紀元前8世紀から紀元後5世紀、地中海世界を生きた古代ギリシャの人々の日常には「魔術」がありました。呪文で病を治したり、人形に針を刺して恋愛を成就させたり、金属板に呪いを書いて井戸の底に沈めたりといったことが一例です。他にも、天体魔術、死霊魔術、錬金術といったさまざまな魔術的試みが行われました。では、どんな魔術をどのように使っていたのでしょうか。

 このことを読み解く本が『秘密の古代ギリシャ、あるいは古代魔術史』(藤村シシン著、KADOKAWA)です。本書で明らかにされる古代魔術からは、当時を生きた人間たちの「世界をコントロールしたい」という強い欲望が輪郭を持って浮かび上がってきます。同時に、これらは決して現代日本の私たちと無縁ではないことがわかります。

 筆者の藤村シシン氏は、1984年生まれで、高校生の頃『聖闘士星矢』に熱中したことで古代ギリシャ史に興味を持ったそうです。東京女子大大学院(西洋史学専攻)を修了し、現在までに研究を続けながら古代ギリシャに関連する書籍の執筆や監修などを行っています。また、2020年東京オリンピックの採火式では、NHKの生中継での古代ギリシャ語同時翻訳を担当します。本書『秘密の古代ギリシャ、あるいは古代魔術史』は藤村氏がNHK講座で行った内容をもととして執筆されたものです。

呪文とは神の本当の名前を呼ぶこと

 魔術の基本的な形態は「呪文」です。魔術師は神々に「私はあなたの秘密の名前を知っている者です! それくらい特別な知識をもっています!」というアピールをします。この頃書かれた呪文パピルスには神ヘルメスの本名を呼ぶことで、自分のいうことをきかせようとしたものがあります。また、それでもいうことをきかない神には、その上司にあたる神を呼び出して訴えます。さらに時に自身が神の名を騙ることもあったそうです。つまり、「神の秘密を握って神に自分のいうことをきかせようとすること」が呪文で、これを行う存在が魔術師です。

 呪文自体は当時の外国語を取り入れたり、それらを組み合わせたりして魔術師が苦労しながら作っています。また、右から読んでも左から読んでも同じ音になる「回文」は、悪いものを打ち消す効果があるとのこと。たとえば、紀元後3世紀の魔術パピルスに出てくる「アブラナタナルパ」がこれにあたり、熱病を治す呪文として使われていました。ちなみに、これはのちのラテン語では「アブラカタブラ」となりますが、こちらは回文とはなりません。

呪術は競争社会を示している

 また、個人の名前を逆から書くと、相手に呪いがかかるとされていました。実際に鉛など金属の呪詛板に相手の名前を逆から書いて、海や井戸の底、墓などに安置したということです。他にも、さまざまな呪いの呪文を書いた呪詛板が発見されています。こういった行いに対して、有名な哲学者プラトンは『法律』において、「(害を与えているのが)魔術師や呪術師であるなら、死刑にされるべき」と示しています。それだけ呪術の力は強力で、無視できないものだったのです。

 古代ギリシャは、「競争(アゴーン)」と「民主政」の精神が特徴です。チャンスは平等なのですが、やはり競争社会は誰かが負けて誰かが勝つ「ゼロサムゲーム」なので、妬みが生じます。成功者を妬みの目で見ることを「邪視(バスカニア)」と呼び、これが呪術の根元の力となります。当時、性別や出自を問わずあらゆる階層の人が誰かを呪っていたことが資料からわかっています。

 一方で「呪いに対する防衛術」もありました。例えば、誰かが自分に邪視を向けていたら、中指を立てます。いきりたった男性器には破邪の力があると考えられたからです。他にも護符として呪術をキャンセルできる陶片を持ち歩いたり、金属の板をお守りとして受け継いだり、魔石(宝石・鉱物)を身につけたりしています。こうしたことから、古代ギリシャ人たちは美しい神々の世界を生み出し合理的な思考で学問を始めた一方、激しい妬みを抱いて日々苦悶していたことがわかります。

世界を操作したい欲望が錬金術を生み出す

 もう少し別の呪術を見てみましょう。錬金術「(アル)ケメイア」とは物質変換の総合技術のことで、「鉛を金に変える」ことから「自分自身の魂を『神』に変える」ことまで、宇宙全体の変換・操作をめざす行為です。錬金術には伝統的に彼らが持っていた「一は全」とする理論、「宇宙全体が合理的に秩序づけられた一つの物体(生き物)である」とする考え方が影響しています。自身の尾の先を咥えた蛇「ウロボロス」が示す通り、世界は永続的に自分自身で破壊と再生しながら不変であると捉えています。

 錬金術師は物質を「操作」することをめざして、こういった理論を利用します。他にも、占星術や神話などさまざまな当時の知を総動員して、自然を方法論的、体系的に操作しようとするものでした。錬金術師は実際には金属の種類を変えることはできませんでしたが、熱心に探求した人たちは決して詐欺を働こうとしたわけではなく、実験を重ねて真理に近づこうとしていたのだと藤村氏は言います。

魔術師とは「自分の力で運命を覆そうとする者」

 藤村氏は「魔術」とは普通から外れるもののことだと言います。古代人は魔術師を「自分の力で運命をも覆そうとする者」と定義しました。「常識や社会的地位、物理法則、未来、そのほか逃れられない運命を自分の手で変えようと望む行為」が、魔術師が行ったことでした。これは古代ギリシャ人と同様に、現代の私たちも求めている力といえるのではないでしょうか。

 本書は、古代ギリシャ人の生き様について「魔術」という側面からアプローチしています。われわれは科学が発展した現代に生きていますが、その発展の根元にあったのは、お伝えしたように世界をコントロールしたいという欲望だったのだとわかります。そして、現代のイノベーターたちも、魔術に願いをかけた古代ギリシャ人と同様に、新たな魔法の道具を生み出そうと科学の力を借りて懸命にもがいているのではないでしょうか。

 非常に詳しい図像や文字の解析・解説もさることながら、文章としても現代の文脈に置き換えて、とてもわかりやすくかみ砕いて解説されています。さらに、ゲームのような美しい装丁やイラストは、見ているだけでも引き込まれます。ぜひ一度、本書を開いて、古代魔術の世界とその歴史をひも解く旅をご堪能ください。

<参考文献>
『秘密の古代ギリシャ、あるいは古代魔術史』(藤村シシン著、KADOKAWA)
https://www.kadokawa.co.jp/product/322105000646/

<参考サイト>
藤村シシン氏のX(旧Twitter)
https://twitter.com/s_i_s_i_n

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