●「今、感じる」ことの快楽
津崎 冒頭の話に戻るんだけど、多分「幸せとは何か」と論じていない哲学者はいないと思う。
五十嵐 うん。
津崎 みんな多かれ少なかれ、なんらかの言葉を使って幸せの追究をしていて、不思議なことに結構意見が一致している場合もある。
五十嵐 どういうこと?
津崎 ラッセルとかエピクロスみたいに、「自己充足していることが重要である」と。
五十嵐 でも、ラッセルとエピクロスはちょっと違うなと。聞いていて思ったのは、エピクロスは心地いいことを‥‥。
津崎 快楽。
五十嵐 その「心地いい」というのは、感じることでしょ。
津崎 そう。
五十嵐 感じるって、「今、感じる」ことだと思うんだけど、普段いろんな人が言っていることを聞くと、「○○になりたい」とか、「お金持ちになりたい」とか。
津崎 未来のこと。
五十嵐 そうそう。だから未来のことに幸せを置いちゃっている。
津崎 過去もあるよね。「あのときはよかったな」とか。
五十嵐 そうそう。そういうふうに考える人って、今、何を感じているかというと、ずーっと「なんか足りない」。「前は幸せだったけど、失ってしまった」とか、「将来幸せになりたいけど、今はまだない」とか、「ない状態」で今日も明日も明後日もずーっと生きているということで、それは、エピクロスが考えているようなこと(エピクロスは読んだことないけど)とは、どこか違うんじゃないかと。
今、わたしが感じていること、例えば「空気が気持ちいいな」とか、「マイクとお話しして楽しいな」とか、いろんなことがあるけれど、それは今しかないわけだから、それを今、自分がどう感じているかということをもっと大事にする。例えば、お肉を食べていて、「このお肉よりもサーロインステーキのほうが本当はよかった」とか「サーロインステーキを食べられるようになりたい」とかじゃなくて、「このお肉の味が心地いいかどうか」ということをもっと丁寧に感じていくほうが、快楽につながるんじゃないかと思って。
●「幸福」を論じるいくつかの切り込み方
津崎 たしかに。今、さっちゃんと話していて、幸せを(ちょっと難しい言い方すると)「論じる」ときに、いくつか切り込み方があるなと。今までさっちゃんと話してきたなかに出てきた切り込み方の一つとして、「時間」があるよね。過去、現在、未来。そうした点的な時間だけではなく持続ということもあるんじゃないかな。つまり、快楽というのはどの程度長続きするのかとか、幸せは長続きするのか、という問題がある。
五十嵐 長続きするのかな。
津崎 という問題があるでしょう、まず。快楽にせよ、あるいは幸せを快楽と定義するとした上で、その幸せ、ないしは快楽というのは、一過性なのか持続的なのかという問題が一つあるよね。
それから、さっちゃんが出したすごく大事な、「わたしが」ということ。だれが幸せなのかという問題。わたしが幸せなことが重要なのか、あなたが幸せなことが重要なのか、あるいはみんなが幸せなことが重要なのかということ。
五十嵐 宮沢賢治みたいにね。
津崎 そう、そういう「だれが幸せなのか」という問題もある。つまり、幸せというのは一過性のものなのか持続するものなのか。だれが幸せなときに幸せという問題を本当に十分に論じきることができたと言えるのか。
さらにはもちろん、僕自身が持ってきた例で言うと、お金や権力や名誉、あるいはサーロインステーキとか普通のお肉とか、つまり「何を」幸せと感じるかという、対象の問題があるよね。
こういういくつかの切り込み方があるとして、ちょっと深掘りしてみたいなと思うのは、「わたしが幸せ」ということが重要か、あるいは「わたしとご縁がある人が幸せ」なことが重要なのか。重要というか、そのことに哲学的な問いとしての面白さがあるのか。あるいは、あなたもわたしも、どの程度かは分からないけれども、幸せであることのほうがいいのか。
●「今、幸せだ」と決めて、生きる
津崎 さっちゃんは、どうですか。
五十嵐 前回のエピクロスの話で言えば、幸せというのは「心地よい」と感じることだから、わたしが感じることのなかにしか幸せはない、と思っていて。例えば、あなたが幸せなのがわたしはうれしいから、それがわたしの幸せだから、あなたには幸せになってほしいとか。宮沢賢治だったら、世界のなかでだれか一人でも不幸な人がいると、わたしが悲しくて不幸だから、幸せになってもらいたい。
ということだから、「感じる」というのは、他の身体じゃなくて、この(私の)身体が心地よいと今感じるということで、そのためにどうするのかということ。この身体、今生きている、このドキドキしている……。
津崎 血が通っている。
五十嵐 そ...