●武士を誕生させた中世は、お手本なき時代だった
こんにちは。初めまして。日本大学の関幸彦と申します。
今日は皆さまに、武士の誕生ということで、武士の登場のプロセスをお話ししようと思います。
武士というと、武的領有者の代名詞として、日本の歴史における中世の主役と考えられています。ただし、中世の時代についてはいろいろと議論があり、近年では院政期である11世紀の末ぐらいから中世の時代へと突入したといわれています。そして、その主役が武士です。そもそも武士は院政期を含めて、その前の時代から日本国の胎内でどのように成立したのかについては非常に大きな議論があります。
大きな議論を考える上で、大陸情勢、また東アジア情勢という外からの視点と、日本国内部の事情という胎内的な視点の両様を重ね合わせながら議論していくことが最も近道であると思われます。
ちなみに、武士を育み生み出していった中世の時代は、「お手本がない時代」であると考えられています。
「お手本がない」とはどういう意味か。7世紀から始まる古代の時代は中国の律令制を1つのお手本にしました。古代の国家は、お手本をしっかりと見つめながら国家デザインやモデルをつくっていったのです。
日本の歴史を考えたときに、お手本がある時代の一つに先ほど挙げた古代があります。そしてもう一つ、日本が近代へと突入していく幕末から明治維新の時期もまた、欧米というお手本がありました。
われわれが主題としている武家の時代は、およそ700年の長きにわたって続きます。その700年の長き間に三つの幕府を設定できます。ご承知のように、鎌倉幕府、室町幕府、そして江戸幕府です。
それぞれの幕府の主役、すなわち武家政権の主役を成したのが、いうまでもなく武士です。武士は700年にわたる大きな時代の主役を成しましたが、そこにはお手本がありません。
主役となる最初の段階に鎌倉幕府が登場します。この登場の主役を成す武士が、平安時代の400年にわたる時期に、どのような流れの中で育っていったのかについて、いくつかポイントを挙げて議論していきたいと思います。
●「有力農民が武士化した」という理解は是正されつつある
皆さんたちの多くが中学や高等学校で習った昔の記憶をひも解いていただくと分かるかもしれませんが、「武士は農民のチャンピオンであった。農民が成長し、有力になって、自衛しながら勢力を伸ばしていき、それが武士ないしは武士団の形成につながった」という議論が、教科書の一つの定番のスタイルでした。
しかし、昨今では教科書の叙述の仕方が少しずつ変わってきました。変わってきた近年の考え方では、武士は必ずしも農民のチャンピオンではなく、有力農民が武士化したという理解は是正されつつあります。それが近年の大きな特色になっています。
それはなぜなのか。簡単にいえば、有名な12世紀末の「源平の争乱」と呼ばれる乱があります。これは、昨今の学問的には「治承・寿永の内乱」と呼ばれていますが、鎌倉幕府に結集する武士たちの多くの系図等々を参照しても、彼らの出自が農民の有力者から分派していることを示す明瞭な史料がほとんどありません。
問題はそれだけではありません。「武士の成立というポイントについて、日本の中世を誕生させた武士を、農民のほうから考えよう」という議論は、貴族と対抗・対立する農民がいかに権力を獲得しながら自分たちの権限を強化していったかというプロセスをとにかく重視するために、「農民と武士が同じ与党」という枠組みの中で考えられてきました。
ところが実際問題を考えると、武士というものを「階層的に農民と同一性のあるグループ」として考えるよりは、「武士はむしろ貴族や貴族の末裔、あるいは王家である天皇の子孫たちといった、古代の律令の国家の中の支配層が分派しながら地方に広がっていったもの」という解釈のほうが当てはまります。
そのため、「農民との同一的な階層の中で、農民との共同作業によって、支配者たる公家や貴族を打倒していく」という構図は是正されており、そうした理解が近年では主体になっています。
●なぜ「王朝国家」を設定する必要があるのか
その背景には何があったのでしょうか。
先ほどお話ししたように、実は日本は古代の国家を誕生させる際に中国をモデルにしました。ところが、ご承知のように10世紀の初頭に中国の大唐帝国が崩壊します。その背景には「安史の乱」や「黄巣の乱」という内部の様々な矛盾があり、それが大唐帝国の解体を早めました。それによって、中国をモデルにした律令国家は、中国自体で10世紀をきっかけにして解体していきます。
そして、...