●「質の追求」は誰でも日常生活でできるが……
―― 今のお話だと「人の幸せのためなのか」「自分の幸せのためなのか」が大きいところですね。
田村 そうです。今の経営学の教科書は「利益の追求」ですから、あの目的を変えてしまって「人間いかに幸せになるか」を追求する経営学の教科書を作ってもいいのではないでしょうか。
執行 ただ、私もそういうケースをたくさん見てきましたが、それも全部「量」に変えられてしまうのです。途中から。考えはいいんですが、たとえばボランティアです。人の手伝いをするのは尊いことです。ところがそれを「何時間やったのか」「どのくらいやったのか」という量の評価につながっていく。何でも変えられてしまうのです。
田村 西洋はそうですね。普遍化しないといけないから、分析して数値化する。そうしないと会話が成り立たないという前提がありますが、そうではないのだ、というお話ですよね。
執行 だから最初に言ったように西洋がどうして「量的文明」を築いたかというと、キリスト教があったからなんです。キリスト教は「無償の愛」です。そちらもすごかったのです、19世紀までの西洋人は。だから科学文明という「量の文明」が発展できた。
田村 それが今度、宗教がなくなったから、質がおかしくなった。
執行 アメリカンビジネスになったのです。今はもうアメリカも病んでいます。
田村 行き詰まっています。
執行 でもアメリカの(20世紀初頭の経済学者フレデリック・)テイラーが大企業の理論を作った頃は、ものすごいプロテスタンティズムでガチガチの国でした。われわれが見ても、とても嫌になるくらいです。だけど、そのキリスト教精神によって「量は量」「心の質は質」という生活をアメリカ人は送っていたのです。それこそ日本に来た(札幌農学校の初代教頭)クラーク博士など、有名な人たちはみんなそうです。
田村 英米の「精神文化」の上に「制度」ができているから、一貫していた。
執行 日本は、それ(制度)だけ取ってしまいましたから。
田村 日本も最初の頃は、武士道がありました。
執行 まだ、ありました。
田村 これが宗教と同じ役割を果たしましたが、日本もそちらがなくなってしまった。
執行 金儲けだけになってしまった。
田村 だから、もう行き詰っている。
執行 だから、それはもう「真の自信」を生み出すものではありません。いくらみんなが頑張って追求しても、ダメなのです。それがわからないとダメです。
田村 宗教や武士道に代わるものとして、「理念」を追求していく方向に仕組みとして落とし込んでいくしかないのだと思います。
執行 あとは、「理念」まで行かなくても、今言った「質の追求」は誰でも日常生活でできると思います。私の会社も今、それをやろうとしています。ただし、これは限界があります。質というのは、量が増えるとダメになるという相関関係がありますから。経済学に詳しいわけではないので、どのくらいの量なら質が壊れるかという限度は理論的にはわかりませんが、実感としてはあります。
教育もそうです。差別と言われようが、どの国でも、ある程度、学生が少ないときは教育程度が高くなります。これが不平等ということで学生数がだんだん増えてくると、何のために増やしたのかわからなくなる。誰も大学生としての知識もないような社会ができてしまうのです。
田村 ビジネスの現場では、質と量は分けられません。質を追求する。理念というのは「質」ですから。すると、それがうまくいっているかどうかは、やはり「量」でチェックするしかないんです。
執行 それは今の価値観だからなのです。
田村 いや、そうではなく、質を追求すると必ず量が増えてくるんです。お客さん喜んでくれるのだから。もし、そうなっていないとしたら、質の追求の仕方に問題があるのです。
執行 そこで大事なのが、自然な増え方かどうかです。今言っている「量の文明」ではなく。例えば刀鍛冶でもうまければ、だんだん少しずつ売れます。
田村 そう。だから(量を)チェックリストとして使っているのです。
執行 でも、今は量の文明なので、ある段階から「刀の質がいいから売れている」ではなく、「刀を売ろうとする」ほうに行ってしまうのです。
田村 ですから、そこはやはり理念の追求であり、創業者の精神です。
●岩波茂雄の偉大さはどこにあったのか
執行 文明の問題もあります。現代文明が「量の文明」だから。アメリカングローバリズムの大量生産、大量消費という思想が社会にないときは、みんな質を永遠に追求しました。だから刀なら正宗(のような名刀)が出てくるのです。だけど正宗につながるようなものは、今はやっていられなくなった。
出版社もそうです。私も本をたくさん...