●第一次大戦後の世界は世界史的大変動の時期だった
―― 戦前、陸軍には皇道派と統制派と呼ばれる派閥がありましたが、そのような陸軍の分裂はなぜ起きたのでしょうか。
中西 これは現在の世界状況と非常にアナロジカルに似たところがあり、パラレルに論じられるところがあります。世界秩序という、大きな世界史的な視野から見ることが、昭和史の解釈としても非常に大事な視点になってくるわけです。これは私が常々提唱していますが、日本の昭和史だけが孤立して展開していったのではありません。もっと大きな与件もありました。昭和の中で日本最大の歴史、そしてあの悲劇の戦争に至る、大きな導入、あるいはそれを動かしていった動因には、当時が世界史の大変動期だったということがあります。
具体的にいえば、それまで、第一次大戦までの世界を主導したイギリスを中心としたヨーロッパの国際秩序、つまりパックス・ブリタニカですが、数百年、少なく見てもフランス革命とナポレオン戦争後の1814~1815年に行われたウィーン会議から、100年間の世界を主導したイギリスによる世界秩序が、第一次大戦で見事に崩壊、あるいは衰滅したわけです。
では次の覇権国はあったのかという話で、今日は世界史的な視野からいえば覇権争いや覇権の交代といった議論が人々の口によく上るような時代になりましたが、まさに100年前の第一次大戦から世界史的な大変動期だったのです。
大体、20世紀の最初の20年、あるいは第一次大戦後の、いわゆる第二次大戦が始まるまでの戦間期といわれる時代は、明確な覇権国が存在しないままに世界秩序が根本的に流動を続けていった時代です。この端境期に昭和史がまともにぶつかるわけです。
まさに日本はその激流の中に翻弄されていきました。パックス・ブリタニカの時代、つまり一つ前の時代には、明治日本は大変よく適合しました。その中での興隆というのは、申すまでもなく象徴的には日英同盟です。しかしそれは、1921年~22年に開かれたワシントン会議で廃棄されます。日本の羅針盤がここでなくなってしまったわけです。「日本外交の基軸」という言葉は、実に日露戦争後の明治40年前後に、日本の外交文書や政治家の国会答弁などで常套句になります。「基軸」という言葉を使うとどうも視野が狭窄してしまうので、現象としては、新しい時代になじめない証拠になってしまいます。
日英同盟は日本の存立を非常に支えたものでしたが、ある意味、ある時代にしか存立できないものでした。それが一つ前の時代だったということです。
●総力戦の時代の到来にいかに日本が対応するかが問われた
中西 第一次大戦から、昭和の日本に与えた衝撃が多く派生するわけですが、その一つは、第一次大戦が終わった後、世界は平和になったかというと、決してそうではなく、人間の精神の在り方、あるいは国家の営みという意味ではむしろ第一大戦前よりも危ない時代になったということです。
それは典型的にいえば、いわゆる総力戦の時代です。 これからも戦争はあり得るし、それはもっと工業化されて国家総動員体制を取って、そして国力を全てそこに集中させていくという、いわゆる総力戦の時代が未来の戦争のパターンになると皆、信じ込むようになります。軍人だけではなく、インテリたちも、です。
そうすると、工業力に劣る日本はどうやって生きていけばいいか。日英同盟がなくなって、そして列強、具体的にアメリカと直に向き合います。日英同盟を廃棄させたアメリカが、日本の発展の前に立ちはだかるという姿もその時代、同時に表れてきました。世界秩序の不安定さを象徴する日本にとっては、そのような意味合いを持っていました。
文明が進んだアメリカは民主主義と物質繁栄の象徴ではありましたが、もう一ついえば、日本の国家的発展の道をふさぐ、立ちはだかる大きな重しのような存在としてアメリカを理解するようになりました。これは大正後半、後期の大きな予見だったと思います。
●国家変革を視野に入れたバーデン=バーデンの盟約
中西 そこから、日本人、特に日本の指導層になるべく「我こそは」と思っていたエリートたちが、真剣に悩む時代が始まります。これが1921年~22年のワシントン会議で、踵を接して同じ年、場所はヨーロッパ、ドイツのバーデン=バーデンというところで、今のバーデン=ヴュルテンビルク州、ライン川に沿った風光明媚な田舎町ですけれども、そこに有名な3人の日本の軍人が集まります。新時代を代表する人たちで、当時のこれ以上ないほど最先端を行っていた、日本のヨーロッパ駐在武官たちが集まるわけです。
1人は永田鉄山でした。永田鉄山が最も、総力戦、国家総動員体制の時代が始まる1921~1922年に問題意識をしっかりと持って、新しい陸軍の世代の中でそのような問題に対...