≪全文≫
もう一つ付け加えるなら、大東亜戦争の後半、日本軍は当初、南方の小島でアメリカ軍相手に水際で戦ったものだから、日本の戦車隊は艦砲射撃などにやられてあまり役に立たなかった。しかし、終戦直後に行なわれたソ連軍との戦闘では、日本の戦車部隊が非常に健闘しているのだ。
戦前は日本の領土だった千島列島の一番北に、占守(しむしゅ)島という小さな島がある。そこには本土防衛作戦のために、第七十三旅団および満洲から転進した精鋭の戦車第十一連隊(通称「士魂部隊」──「十一=士」という文字からの連想である)が主力部隊を置いていた。
これらの部隊は、カムチャツカ半島方面からのソ連の侵攻に備えていたわけだが、日本が昭和20年(1945)8月15日にポツダム宣言を受諾してから3日後の8月18日未明、ソ連軍は突如、占守島に上陸を開始した。
当時、占守島には第七十三旅団と戦車第十一連隊を軸に、8480人、戦車60台が守りについていた。一方、ソ連軍は8824人が戦闘に参加している。日本軍は一時、ソ連軍を上陸地点にまで押し返す健闘を見せたが、中央の停戦命令に従い、8月21日に戦闘を停止し、ソ連軍に降伏した。
わずか3日あまりの戦闘だったが、ソ連側の史料でも日本軍の死傷者1018人に対し、ソ連軍の死傷者は1567名と、日本軍の損害を上回っている。
このように同部隊は非常に健闘していただけに、中央からの命令で停戦しなければならなかったのがまったく惜しい。アメリカ海軍の戦艦ミズーリ号の艦上で降伏調印式が行なわれたのが9月2日だから、それまで攻撃を食い止めていれば、いわゆる北方領土にソ連は手が出せなくなっていたに違いないのだ。
日本軍はそれまで戦争に負けたことがなかったから、負け方が下手だったのである。降伏しても武器を渡さず、引き揚げを行なう際に武装解除に応じていたら、もっと被害は少なくてすんだろうし、60数万人も強制連行されてシベリアに抑留されることもなかっただろう。
一方、ドイツは負け方を知っていた。ヒトラーが自殺したあと、新政府の大統領に指名されたデーニッツ元帥が、昭和20年(1945)5月6日に作戦部長のヨードル大将を降伏交渉に当たらせ、翌7日にはアイゼンハワー元帥麾下(きか)の連合軍との間で、8日にはジューコフ元帥麾下のソ連軍との間で降伏文書に調印している。でなければドイツは略奪に任せるままになっていただろう。
ところが日本は、8月15日に連合国への降伏を国民に公表したあと、降伏文書の調印を9月2日まで延ばしてしまったので、その間に満洲や朝鮮半島で在留邦人が大きな被害に遭うという悲劇が起こったのである。
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情報・テキスト
占守島
日本軍はそれまで戦争に負けたことがなかったため、負け方が下手だった。それは、終戦直後の北方領土におけるソ連との戦闘に表れている。上智大学名誉教授・渡部昇一氏によるシリーズ「本当のことがわかる昭和史」第一章・第8話。
時間:03:57
収録日:2014/11/17
追加日:2015/08/10
収録日:2014/11/17
追加日:2015/08/10
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