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朝日新聞は今後どうするつもりかわからないが、現在シナや韓国が仕掛けている「歴史戦争」は、戦争に勝った側の戦時プロパガンダに必ず戻るだろう。
戦時プロパガンダといえば、大東亜戦争当時には、われわれも「鬼畜米英」といっていたのと同様に、アメリカ人たちもわれわれのことを「黄色い野蛮なサル」とか「野獣」と呼んでいたからお互い様である。だが戦争が終わってから、日本にもアメリカにも、そんなことを言い続けている人はいない。にもかかわらず、第二次世界大戦の戦勝国でもない国々があたかも戦勝国のふりをして、戦後70年が経ついま、日本を「戦犯国」などと貶めている。
思うに、相も変わらず「歴史戦争」と叫んでいるような国は、日本の敗戦によって得をした「敗戦利得国」である。毛沢東自身が昭和39年(1964)、当時、日本社会党委員長であった佐々木更三に「日本は何も謝ることはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれました。これのおかげで中国人民は権力を奪取できたのです。日本軍なしでは不可能だった」とジョークめかして語っているごとく、中国共産党は日本と蔣介石とを戦わせて、その漁夫の利で政権を獲得したようなものである。韓国も、日本の敗戦をきっかけに独立した国であり、アメリカが連れてきた初代大統領・李承晩は徹底的に反日の人物で、ひどい反日教育をすることで政権の求心力を高めようとした。いってみれば、彼らは日本が敗戦したおかげで政権を獲得した人々であり、反日が政権のDNAのようなところがある。
それにしても、なぜシナや韓国はあれほどまでに反日に熱を上げるのか。
ある人が、米戦略国際問題研究所(CSIS)上級アドバイザーのエドワード・ルトワック氏が語ったという、非常に興味深い話を紹介してくれた。
ルトワック氏が、戦後すぐに親に連れられてヨーロッパを旅行したときのことである。戦後まもない頃であったにもかかわらず、パリではドイツ人が闊歩していた。だが、オランダに行くと、民宿にはみな「ドイツ人お断り」という張り紙が貼ってあったという。
その理由をあれこれ考え、いろいろと調べてみて気づいたのは、オランダは第二次世界大戦でドイツ軍の攻撃開始からたった五日間で降伏している。その負い目があるから、ドイツ人に対して「憎さ百倍」ということになったのだろうということだ。一方、フランスはドイツとそこそこ戦ったから、戦いが終われば「また以前のようにやっていこう」という気持ちになれた。しかしオランダ人たちは、いつまで経っても「憎きドイツ人め」と思わなければやっていけなかったのだ。
ルトワック氏は続けて、「朝鮮半島は(当時のオランダに)似ている。朝鮮は、日本に併合されて良い生活ができるようになったので、反抗運動らしきものもほとんどなかった。そういう民族の歴史に対して非常に負い目があるので、自身のプライドを保つために、『日本に強制された』と言い続けないと国がもたない。だからいくら韓国に謝罪しても解決にならないのだ」と話していたという。
シナにしても、日本が対英米戦争に突入しなければ戦争に勝ち目はなかった。中国共産党に至っては、彼らが描く歴史譚とは異なり、実態はほとんど奥地に籠もりつつ国民党支配地域への勢力浸透を目論むばかりであった。
アメリカとベトナムは、昭和40年(1965)から48年(1973)までの約8年間、ベトナム戦争を戦った。この戦争で、北ベトナムおよび南ベトナム解放民族戦線の戦死者は推定約98万人に上り、アメリカ軍では約5万8千人が戦死した。
かといって、いまアメリカ人たちがベトナムに行っても、「過去を真摯に受け止めて反省せよ」とか「歴史を鑑にせよ」といわれることはない。お互いにあれだけ死力を尽くして戦ったのだから、過去のことをいちいち謝れとはいわずに、アメリカとベトナムも仲良くやっているわけだ。真剣勝負で戦った人たちの間には、お互いに「敵ながらあっぱれ」だという気持ちが生じるものである。先の坂井三郎氏もその一人であるが、その典型は、日米のパイロット同士による戦後の交流だろう。「あのときはお互いによく戦った」と、相手に敬意を払い、褒めたたえている。
昭和26年(1951)1月、韓国の李承晩大統領は「対日講和会議に対する韓国政府の方針」を発表し、同年九月に開催されたサンフランシスコ講和会議への参加を希望した。ところが日本の反対をアメリカが認めたため、韓国は講和会議にオブザーバーとして参加することはできたが、サンフランシスコ平和条約の署名国の地位を得ることはできなかった。
いま韓国の歴史教科書では、中国に韓国亡命政府があって独立運動を行なっていたことになっている。中国に反日の韓国人がいたことは事実である。だが、彼...


